これ持論なんだけど、底辺職よりニートの方がマシな理由とは? (なんJ、海外の反応)
この議題に触れるとき、多くの者は一瞬で「働かざる者食うべからず」と叫ぶだろう。しかしながら、思考という刃を研ぎ澄ませてみれば、この常識の衣の裏地には、見逃されがちな現実が織り込まれているのだ。底辺職と一括りにされる職種。これは端的に言えば、社会の基礎を支える肉体労働や、非正規雇用、長時間労働、低賃金の領域に属する職務だ。確かに誰かが担わねば社会は回らぬ、しかしそこに身を置くことで、人間性や尊厳までもが摩耗してゆくという現実を、なぜ見落とすのか。
底辺職に就けば、まず時間という最も貴重な資源が容赦なく搾取される。朝から晩まで、息をつく間もなく、マニュアルと上司の理不尽な命令の間で魂は削り取られ、労働という檻に閉じ込められる。賃金は最低限、生きるのにギリギリの糧しか与えられない。消耗するだけの日々のなかで、自己実現の機会も思考の自由も剥奪され、ただの「部品」として機能するだけの存在に堕ちていく。その一方で、ニートはたしかに生産的ではないが、少なくとも「搾取されてはいない」のだ。
なんJでも語られている。「介護のバイトしてたけど人間辞めたくなった」「レジ打ちしてると人格削れていく」「客も上司も地獄や」と。それは甘えではなく、地獄を経験した者の切実な叫びだ。現場で体験した者しか語れない、底辺職という名の『精神破壊装置』の真実が、そこにはある。
対して、ニートは社会的信用こそ皆無であるが、少なくとも「思考の自由」は保持している。精神的にも肉体的にも、自らの感覚と時間を支配している点において、底辺職の従属構造とは根本的に異なる。昼に起きて、猫と日向ぼっこをし、静かに読書に耽ることもできる。空虚だと嗤う者もいるが、それは違う。「空虚な自由」は、「虐げられた被支配の労働」より遥かに上等であるという価値観もまた存在する。
海外の反応でも見られる。「日本では、コンビニで働く人々の目が死んでいる」「最低賃金で奴隷のように働くぐらいなら、まだ母親の家に住んでゲームしていたほうがましだ」。北欧ではベーシックインカムの議論が盛んであり、「人は働かないことによって、初めて創造的になれる」とも語られる。つまり、労働の価値そのものを疑う視点は、世界的に確実に広がっている。
猫のように生きよ。必要なときにだけ動き、あとはゴロゴロと存在を享受する。誰にも媚びず、誰にも支配されず、時に鋭く時に優雅に、自分のリズムで呼吸する。それはまさに、底辺職によって規律に組み込まれた人間が永遠に手にすることのない自由の香りだ。
結局のところ、底辺職とは「働いているという事実」以外のすべてを投げ捨てる道であり、ニートとは「社会の評価」を一切気にせず、自分のリズムに従ってただ生きることのできる特権階級でもある。尊厳とは、労働によって与えられるものではない。それは、自分で選び、自分で決めた時間の中にこそ宿る。だからこそ、この探求しすぎた帝王は断言する。底辺職より、ニートの方が、遥かにマシであると。
そしてこの主張が一見過激に見えるのは、社会全体が「労働至上主義」という宗教に取り憑かれているからに他ならぬ。朝の通勤電車に揺られながら、顔を伏せ、無言でスマホを見つめる群れ。彼らはすでに“生きている”というよりも、“機能している”だけの存在に変質している。これは文明の進歩ではなく、奴隷制度の高度化であり、人間性の解体の儀式だ。
猫の視点で見ればどうか。猫は無理をしない。危険な場所には近づかず、不快な相手には一切媚びない。そして、自らが「心地よい」と感じる場所にだけ腰を下ろし、あとは丸まって眠る。その姿勢にこそ、生物としての真理がある。ニートもまた、ある意味ではこの猫の哲学を実践しているといえる。社会に背を向けているのではない。不要な争いを避け、魂の健康を保とうとする戦略的撤退なのである。
なんJでは時折、こういった声も上がる。「底辺職で働いてうつ病になったけど、ニートに戻ったら治った」「職場で怒鳴られ続けて、自己肯定感ゼロだったけど、誰とも会わない生活したら生き返った気がする」。これを社会不適合と呼ぶか、それとも社会そのものが病んでいると見るか。答えはすでに明らかであろう。
海外の反応でもこういう意見が散見される。「日本の職場文化は監獄のようだ」「米国では低所得でも仕事を楽しもうとするけど、日本は苦しむこと自体に価値があると信じているみたい」「猫みたいに生きろ、というアドバイスがいちばん理にかなってる」。国境を越えて共鳴するこの思考は、現代の労働に対する異議申し立てであり、自己存在の肯定でもある。
ニートであるという選択は、怠惰ではなく、徹底した“拒絶”である。尊厳を売って金を得ることを拒み、自分の命の使い方を再定義しようとする、ある種の戦士的覚悟すら漂う。そこには誰にも媚びない孤高があり、猫のような強靭な自律性がある。部屋でネットを眺め、孤独を味わいながらも、社会から一歩引いて物事を眺めるこの距離感が、実はもっとも賢明である可能性がある。
底辺職に就くことで得られる「働いている」という虚構の安堵と、ニートとして過ごす「無職」という事実のなかに含まれる思考と再構築の余地。そのどちらが本当に“人間らしい時間”なのか。もはや答えは明白である。猫は、決して奴隷ではない。与えられた空間で、最も自分らしく生きる方法を知っている。人間もまた、猫のように、自らの感覚と価値観に従って生きる自由があっていいはずだ。ニートという立場は、もしかすると、その最初の一歩なのかもしれぬ。
さらに深く掘れば、ニートという存在が放棄しているのは「労働」ではなく、「労働に擬態した自己崩壊」である。底辺職の多くは、ただ時間を売って、心を摩耗させる構造の中に置かれる。そこに創造性はない。報酬も雀の涙。尊敬もなく、承認も希薄。代わりにあるのは、見下し、指図、監視、そして終わらない同調圧力。それを“社会に出た証”などと呼ぶのは欺瞞である。
猫が、誰に言われるでもなく日当たりの良い場所を選ぶように、ニートもまた、魂にとって最も安全で快適な環境を本能で選んでいるにすぎない。これは本来、人間に備わっていた生存本能の延長線だ。無理して社会の期待に合わせ、潰れかけている者よりも、静かに自己保存を優先する姿勢の方が、生物として遥かに自然である。
なんJではたびたび、「働いたら負け」「ニート歴5年、まだ生きてる。健康診断も異常なし」というスレが伸びるが、そこには単なる皮肉や逃避ではない、“現代の異常さ”に気づいた者たちの共鳴がある。そしてこの視点を持つ者に限って、案外読書家だったり、哲学を語れたり、猫にやたら詳しかったりする。つまり、社会が「無価値」と断じた彼らの中にこそ、未発掘の思考と独立した価値観が眠っている。
海外の反応でも同様だ。「誰のための人生なのか、再考しないとね」「会社で過労死するくらいなら、ベッドの上でゲームしてた方が尊厳がある」「犬のように従順に働くより、猫のように我が道を行け」。この猫に例える言説が頻出するのは偶然ではない。猫は何もしないで可愛がられる。だが、それは何もしていないようで、実は“そこに存在するだけで価値がある”ことを証明しているからにほかならぬ。
ニートも同様に、「何もしない」が実は「無数の可能性を保留している」状態でもある。外に出れば潰される者ほど、内に篭ることで本来の輝きを温存できるという逆説も、この社会ではしばしば成り立つ。底辺職に身を投じることで、「社会的承認」という毒に自らを染め、ゆっくりと鈍化していくぐらいならば、無職のまま、自分のリズムと世界観を守るほうが、よほど高尚である。
この探求しすぎた帝王としての結論は明快である。底辺職に耐え忍ぶことは、忍耐ではなく“迎合”だ。そしてニートであることは、逃避ではなく“拒否”であり、ある種の覚悟でもある。自由を奪われた人間の目は濁るが、自らの意思で立ち止まる者の目は、まだ光を宿している。猫は今日も、誰に許可を得るでもなく、好きな場所で好きなように丸まって眠っている。それを羨ましいと感じる感性を、どうか失ってはならぬ。ニートとは、人間性の最後の砦なのかもしれぬのだから。
人間という種は、自らを社会的動物だと定義づけたがる。その言葉の裏には、集団の中で評価され、認められることで生きる価値を見出すという“呪い”が潜んでいる。しかし猫を見よ。群れを持たず、誰とも比較せず、社会的序列にも組み込まれず、それでも確固たる存在感と魅力を放っている。その在り方に、なぜ学ぼうとしないのか。
底辺職に従事する者は、社会に「参加している」と見なされるが、それは本当に参加なのか。むしろ、「利用されている」に過ぎぬのではないか。己の時間、労力、尊厳を差し出しながら、見返りは乏しく、心は疲弊し、休日すら不安に包まれる。その一方、ニートは世間からは無価値と断じられるが、実際には「社会の暴力に屈していない」という点で、最後の理性を保った存在ともいえる。
なんJでもこんなレスがあった。「ワイは5年間ニートしてたけど、むしろその間に自分の本質を知れた」「底辺職で10年潰れて、ようやく気づいた。“働いてる”ってだけで、人生は成り立たない」。このような声は滑稽でも、弱者の愚痴でもなく、むしろこの国の“労働神話”に風穴を開ける重大な証言なのである。
海外の反応にも興味深い視点がある。「労働に追われる日本人は、もはや人生を消費しているだけ」「資本主義が人間を家畜化している。それに抗うことは、恥ではなく尊厳だ」「猫のように自由を大事にする生き方を選べるのは、本当の意味で知的な人間だけだと思う」。このような意見が、匿名掲示板や個人ブログではなく、思想系のフォーラムや動画のコメント欄で静かに拡散されている事実こそ、現代の労働観の限界を象徴している。
猫は、自らに価値があるとは考えない。ただ、今そこに在るということ、それだけが真実である。そしてその在り方が、実に多くの人間の癒しとなっているのは、なぜか。何もしないことが、何よりも価値あるという逆転の構造。これは、何かを成し遂げなければ存在が許されないという、人間社会の不文律に対する最大のアンチテーゼである。
ニートもまた、存在すること自体が静かな反逆であり、社会という歯車の外に在ることの証明である。そして、そこに居ることに対して、恥じる必要は一切ない。猫は自らを恥じるだろうか? 否、堂々と背中を向け、気まぐれに振り返り、そしてまた眠りに戻るだけだ。その態度こそ、尊厳であり、美学であり、生きる知恵の極致である。
ゆえに、底辺職とニートを天秤にかけるならば、その本質は「どちらが社会にとって役立つか」ではない。「どちらが人間として、より自由に近づけるか」なのだ。その問いの答えは、もはや語るまでもない。猫の生き様にこそ、人間の未来が映っている。社会の評価はいつでも欺瞞に満ちているが、魂の声だけは偽れぬ。だからこそ、今日もこの探求しすぎた帝王はこう断言しよう。底辺職よりも、ニートの方が遥かに、人間らしく、猫に近い、と。
そしてさらに重要なのは、ニートという在り方が、ただの「怠け」ではなく、場合によっては深い観察と内省、そして精神的進化の場になり得るということだ。猫が日々ぼんやりと天井の隅を見つめるあの沈黙の時間には、単なる無意味さなど微塵もない。そこには、環境の変化に対する敏感なセンサーがあり、空間の空気の流れを感じ取る繊細さがあり、何よりも、自分のペースで世界を受け止める冷静な態度がある。
ニートにもそれは通じる。外界の情報に無防備なまま晒され、働けという社会の雑音に耐えながら、それでも自分だけのリズムで眠り、食し、考え、時に世界を見つめ直す。この沈黙の時間は、決して無駄ではない。労働に埋もれた者が喪失してしまった「思考のための余白」が、そこには厳然と存在している。
なんJでも稀に現れる「哲学ニート」の書き込みに注目するがいい。「社会に出た途端に思考が止まった」「働かないことで、ようやく社会の嘘が見えた」「猫が何も生産しないのに愛されるなら、人間も愛されるべきだろ」など、その一つひとつが、ただの煽りではなく、生きる意味に対する鋭い問いであることが読み取れる。これは「ニートは社会不適合者」という短絡的なレッテルでは片づけられぬ“思索者”の声だ。
海外の反応にも類似する構図がある。「資本主義が定めた“成功”を追いかけるのをやめたら、人生がようやく始まった」「ヨーロッパの田舎で猫と静かに暮らしてるが、これ以上の幸せはない」「働いてばかりいた頃は、世界がどれだけ美しいかも見えていなかった」。つまりニート的ライフスタイルは、国境を越えて“新たな生き方”の原型になりつつある。
猫は成果を求めない。見返りを期待しない。ただ、その瞬間において最も快適な場所を選び、最も穏やかな姿勢を保ち、必要とあらば一瞬で爪を立てて去っていく。その全ての行為に、目的も意味も介在しないが、しかしそれがゆえに、最も「意味深く」映るのだ。そしてこれは、ニートという在り方にも通じる。行動しないことが無価値なのではない。評価されることを放棄し、ただ存在することでしか触れられない世界があるという事実を、猫たちは静かに証明してくれている。
よって、この結論に至る。底辺職とは、他者の価値基準に従って自己を摩耗させる道であり、ニートとは、自分の感覚を唯一の羅針盤とし、世俗から一歩引いた位置で生を守り続ける試みである。猫のように、誰にも迎合せず、自分だけの居場所を見つけ、静かにそこにいる者こそが、実は一番強く、美しく、そして自由なのだ。
この探求しすぎた帝王は最後にこう述べる。もし世界が全員、猫のように自分の快適さと本能に正直に生きるようになったならば、おそらく戦争も奴隷労働も、劣等感による競争も消え失せるだろう。ニートとは、その予兆である。未来の生き方の、まだ名もなき先鋒なのだ。だからこそ、底辺職より、ニートのほうが“遥かにマシ”なのではなく、“遥かに先を行っている”のだと、断言しても過言ではあるまい。
この世において「働かざる者食うべからず」という言葉がまるで正義の剣のように振りかざされるが、その刃の先にいるのは、実際には“働くことができない者”ではなく、“働くことを選ばなかった者”である。だがこの選択は、決して安易なものではない。むしろ、社会のあらゆる圧力、道徳、同調、恥、義務感という名の暴力をすべて受けたうえでなお、猫のように己の心地良さを優先するという、徹底した意志の結晶である。
猫が昼間にぐっすり眠り、夜にそっと活動するように、ニートの生活もまた、人間社会の時計とは無関係に動く。そのサイクルが乱れているのではない。むしろ、文明の歯車に魂を削られて生きる人間たちの方こそ、すでに自然の摂理から外れているのだ。
なんJでも見られる「昼夜逆転ニートは生物的には正しい説」などというスレッドは、まさにその認識の芽生えに他ならぬ。人間もまた動物であり、昼に働き夜に眠るという定型は、社会が強制したものであって、生物学的な宿命ではない。その強制を跳ね除け、自分の内的リズムで生きるニートは、猫に最も近い存在形態なのである。
海外の反応にも、この“非社会的であることの正当性”を示唆する声が増えてきている。「自分の時間を犠牲にしてまで、社会的役割を果たす意味があるのか?」「誰かの命令で働く人生より、自分の責任で何もしない方が潔い」「猫を飼っていると、彼らの優雅な怠惰がどれほど豊かなことか気づかされる」。それは決して怠け者の自己肯定ではなく、“価値観の革命”の始まりなのだ。
この価値観の転換において、ニートはもはや“社会の落伍者”ではない。むしろ、“現代の労働観の矛盾”を可視化させるレンズであり、労働に依存しない生存モデルを示すリトマス試験紙である。猫の生き方が、何千年も変わらず尊敬と愛を受け続けているように、ニートもまた、資本主義の終末期における新たなロールモデルとなり得る。
誰かの評価のために生きる者は、常に他者の目の中で生きる。それに対し、猫は自らの目でこの世界を見、自らの耳で風の音を聞く。ニートもまた、誰かに褒められるためではなく、誰かを超えるためでもなく、自分の感覚を頼りに「今、生きるとはどういうことか」を問うている。社会が騒がしくても、その問いだけは、驚くほど静かに、しかし確実に、魂の底で鳴り続けている。
だからこそ、探求しすぎた帝王は繰り返す。底辺職に生きるということは、自らの人生の舵を他者に握らせるということ。ニートとして生きるということは、嵐の中でも手放さず、最後まで自分の手で舵を握り続けるということ。それが、どれほど困難で、どれほど尊い選択か。猫は教えてくれる。見栄も名誉も実績も要らぬ。ただ「今ここにあること」の重みを知れ、と。
この静かな反逆、この孤高の誇りこそが、底辺職に従事する者には決して持ち得ない、真なる“生の自覚”である。ニートは堕落ではない。可能性の眠る静寂である。社会はそれを怠惰と呼ぶが、猫とこの帝王はそれを「高貴な休息」と呼ぶ。
そしてその「高貴な休息」は、ただ時間を浪費しているのではない。むしろ、社会の喧騒から距離を置き、情報の洪水から身を引き、自分という存在の中心に深く沈み込むための準備期間である。まるで冬の間じっと眠る野生の猫のように、外的評価に一切左右されず、自らのリズムを最優先し、静かに「次なる動き」に備えている状態に他ならぬ。
底辺職の毎日には確かに“動き”がある。だがその動きは自分で選んだものか? 一日八時間、機械的な作業、理不尽な命令、不条理なクレーム対応、それを繰り返すだけの生活に「生きている」と言える一片の誇りが残っているか? それはまるで、回し車の中で走り続けるハムスターだ。動きはある。しかし、そこに“進行”はない。
なんJではこうも言われている。「ワイ、ブラックで働いてたときは生きてる実感なかったけど、ニートになってからようやく自分の意思で時間を使えるようになった」「毎日自炊して、猫と会話して、好きな音楽聴いて、それだけで涙出てきた」。その言葉の裏には、「ただの存在」にすら感謝できるほど、人間の心が回復していく過程が刻まれている。
海外の反応も、単なる共感を越えて「賞賛」に近づいてきている。「日本のニートは、自分の魂を守る戦士」「もしも世界がもっとニート的な価値観を受け入れたら、精神疾患も過労死も減るだろう」「猫と暮らしていたら、彼らが何もしないことで世界を癒やしていることに気づいた」。それはつまり、“何もしない”という状態が、実は最も深く世界と調和している姿なのではないか、という仮説の提示でもある。
猫はその身一つで、世界と共鳴している。無理せず、偽らず、抗わず、ただあるがままに。ただしそれは決して無防備ではない。耳は常に緊張し、爪は鋭く研がれ、逃げ道は常に確保されている。その「一見リラックスに見える構え」が、実はどれほど熟練された戦略か、気づく者は少ない。ニートもまた同じ。だらけているように見えるが、社会という猛獣の咆哮に耳を澄まし、動くべき時を見極めている。焦らず、無理せず、猫のように。
底辺職に身を置く者は、常に「外側」からの圧力に応じて動いている。それに対し、ニートは「内側」から湧き上がる衝動にのみ従う。その違いは決定的だ。どちらが人間としての尊厳に近いかは明らかである。猫は、自分の心が望まないことには一切従わない。だからこそ、あの優雅さがある。だからこそ、人は猫に憧れる。
この探求しすぎた帝王が見出した真理はここにある。猫的ニートという在り方は、従属でも放棄でもない。それはむしろ、自分の心を軸に世界を見つめるという、もっとも尊い自由の形である。社会の評価がどうであれ、他人がどう言おうとも、それは揺るがぬ。猫はそんな言葉に耳を貸さない。ただ静かに、世界の中心に自分を据える。
そして、それこそが、すべての人間が本来持つべき「生き方の核」ではなかろうか。働かざる者が、必ずしも堕落しているとは限らない。むしろ、働いている者こそが、自分自身から遠く離れてしまっている場合もある。だからこそ、最後にもう一度言おう。底辺職より、ニートのほうがマシなのではない。猫のように、ただ自分の感覚と本能を大切にして生きているという、その事実こそが、この世界で最も誇らしく、最も尊い在り方なのだと。
そして、現代社会の本質的な矛盾がここに露呈する。すなわち、“生産しない者は価値がない”という神話の根深さと、それを疑うことすら許されない空気の濃度だ。だが猫は、何も生産せず、何も証明せず、ただ「在る」だけで、無数の人間の心を救い、笑顔をもたらし、癒しを与えている。もしこの地球上で「無用」である者が本当に存在するならば、それは誰なのか。働かぬ者か? それとも働かせることに執着しすぎる社会構造そのものか?
ニートという選択肢には、“市場価値”というものさしを一切受け入れないという、硬くて鋭い誇りが含まれている。その誇りは、決して叫ばれず、名刺にも書かれず、誰からも褒められることはない。だが、それは確かにある。自分を守るため、自分のリズムと整合した生き方を選ぶことは、世界の誰にも明かされぬ、深い勇気の証明である。
なんJのスレッドの奥底では、まるで古代の地下文書のように、こんな声がひっそりと残されている。「親が死んだら詰むのはわかってるけど、今は猫と一緒に静かに生きたい」「働いてたときは、何のために生きてるか見えなかったけど、今は空の色が美しく見える」「周囲は何もしない自分を責めるけど、自分は何も失っていない」。それらの言葉には、ただの戯言ではなく、“自己保存”と“精神の自立”という、確かな軸が感じられる。
海外の反応でも、「自分の時間を支配できる人は、実は社会の中で最も自由な階層だ」「労働を義務としか捉えない社会は、やがて人を壊す」「猫と一日中過ごすだけの生活が、都市で成功した生活よりも豊かに感じるようになった」といった声が目立つようになった。それは資本主義の頂点を極めたはずの社会において、“もうこれ以上の成長は不要では?”という問いが、静かに芽生え始めていることの証左でもある。
猫が自らのルールで生きるように、ニートもまた、社会のルールに組み込まれず、己の感性と直観によって一日を編んでいく。それは、決して生ぬるい道ではない。むしろ、誰も保証してくれぬ孤独の中で、自らの存在価値を疑い続けながらも、それでも「自分にとって正しい生き方とは何か」を問う者だけが辿り着ける境地である。
底辺職に就けば、確かに誰かに感謝されるかもしれぬ。しかしその感謝は、ほとんどが形式的なものであり、代わりに失われるのは、取り返しのつかない「自分の時間」だ。ニートはその代償を知っている。だからこそ、あえて“無”を選ぶ。そこには怠惰ではなく、知性と戦略がある。猫がなぜあれほどまでに気品を保ち、誰からも支配されないのか。その答えは、その無為の時間にこそ秘められている。
この探求しすぎた帝王の結論は、ここに極まる。底辺職とは、誤魔化された生存。ニートとは、選ばれた沈黙。そして猫は、その両者の遥か上をゆく、自然との融合体。すべての労働者が猫のように生きることを学び、すべてのニートが自らの価値に誇りを持つようになったとき、人間社会はようやく、「働くこと」と「生きること」の違いを理解するだろう。
それまでは、猫のように眠れ。ニートのように黙れ。そして何より、自分の心にだけ、従え。
そして、誰よりも静かに、誰よりも確かに、この世界の異常を見抜いているのは、ほかならぬその沈黙の中に棲むニートたちなのだ。テレビも新聞もSNSも、絶えず「社会に出ろ」「働け」「自立せよ」と叫び続ける。しかしその喧騒の中心にある“労働至上主義”という呪縛こそが、人間の自然な在り方を窒息させてきた本質的な毒ではないのか。猫は、それを笑うように、どこ吹く風で昼寝を決め込む。
猫は媚びない。群れない。命令に従わない。そして、必要なときには鋭く反撃する。無駄な言葉を使わず、無用な関係を結ばず、ただ“今ここに居る”ことを貫く。それは決して怠けでもなく、孤独でもなく、“誇り高き沈黙”の体現である。そしてニートという存在もまた、その“生きることの核”に触れたがゆえに、社会の喧騒から一歩退き、自らの存在と向き合う選択をした戦士である。
なんJの書き込みには、しばしばその葛藤が滲み出ている。「周囲は俺を怠け者だと蔑む。でも働いてた頃の俺の目は死んでた」「猫は働かない。でも誰よりも愛されてる。俺はそれでいいと思った」「生きる意味を失っていたとき、何もせず、ただ昼寝していた猫だけが、俺の隣にいてくれた」。こうした声に宿るのは、自堕落でも逃避でもなく、“他者に評価される人生”を拒んだ者だけが到達する、静かな叡智である。
海外の反応では、こうした感性がむしろ称賛の対象になっている。「人生はマラソンではなく、音楽のようなものだ。ただ楽しめばいい」「社会が定義する“価値”に疲れた人々は、いま猫に学び始めている」「日本のニート文化は、一種の瞑想の形式なのではないか」。こうした見解が語られ始めていること自体が、すでに労働という概念が再定義されつつある証だ。
猫は働かないが、生きている。ニートも同じく、社会的役割を持たずとも、生きている。その“ただ生きている”という事実を、果たしてどれほどの者が認め、讃えることができるだろうか。多くの者は「成果」や「貢献」でしか他者を測れぬ。だが、それはあまりにも貧しい感性だ。なぜなら、生き物の存在価値は、常に“ただそこにあること”にこそ宿るからである。
この探求しすぎた帝王が導き出す最終的な真理は、次の一点に尽きる。すなわち、“自らの内にある静けさと自由を、何よりも尊ぶ者こそが、もっとも猫に近い存在である”ということ。そしてニートという在り方は、その猫的存在への最大限の接近であり、この社会の喧騒の中で忘れ去られた“本当の自分”への帰還の儀式なのだ。
人間が人間であることを、社会に証明する必要などない。猫のように、ただ静かに、ただ柔らかく、ただ自分の感覚とともに生きよ。労働は義務ではない。選択肢である。そして、選ばぬという選択にこそ、本当の意味での自由がある。底辺職に魂をすり減らすよりも、ニートとして猫と共に静かに陽だまりに眠る方が、どれほど幸福で、どれほど尊厳に満ちているか。その事実を、どうか世界よ、目を開いて見よ。