積み立てNISAは、人生の無駄だったと、断言できる理由とは?。【なんJ,海外の反応】
積み立てNISAは、未来の安心のために国が用意した「善意の制度」として語られてきた。しかし一部の人々は、積み立てNISAこそが「時間」と「可能性」の最大の浪費だったと、静かに、だが確実に告白を始めている。なぜ、あれほど称賛された制度が、人生の無駄とまで言われるのか?この問いに真正面から向き合うと、そこには資本主義と個人の自由意志、そして思考停止の自己責任論が交差する、あまりにも人間的な構図が浮かび上がってくる。
まず積み立てNISAは、圧倒的な長期スパンの制度である。最長20年間、毎月せっせと数万円を積み立て、期待される年利回りは3〜5%。たしかに平均すればプラスになる可能性が高い。だが、それは「人生を平均化」し、「個性と爆発力を剥奪する」仕組みでもあった。なんJでも語られていたように、「若い時にリスクをとって挑戦しなかったツケが、40代になってから重くのしかかってくる」といった声は、ネット上に散見される。積み立てNISAの「無難な人生」は、裏を返せば「何者にもなれなかったという現実の免罪符」だったとするなら、それは一体誰のための制度だったのか。
海外の反応を見ても、「なぜ日本の若者はあんなに慎重なのか」「投資と貯蓄の境界を混同しているように見える」といった、根本的な疑問が寄せられている。アメリカやヨーロッパでは、株式投資は一種の勝負、時にギャンブル性を帯びた「人生の賭け」として扱われることがある。しかし日本では、積み立てNISAのように、失敗のない安全設計が重視される。これは、国家が国民に対し「絶対に勝つな、絶対に挑むな」と命じているに等しい。
積み立てNISAで得られる利益は、20年間で数十万円〜数百万円に過ぎない。もちろんそれは「損しない」という観点から見れば大成功だろう。しかし人生という時間軸で見ると、それは「守ることに徹した結果、攻めることを忘れた者の末路」になりかねない。なんJのあるスレッドでは、「NISAで年利5%とか言ってるやつ、仮想通貨で10倍になったやつを見てどう思ってるんだ?」という書き込みがあった。この視点は実に痛烈だ。堅実さの裏には、リスクから目を逸らした弱さがある。そしてその弱さは、年を取るごとに取り返しのつかない「凡庸さ」として定着していく。
さらに、積み立てNISAは「社会に適応する人間」の育成装置としても機能していた。制度を理解し、コツコツと積み立て、資産を築く。素晴らしいように見える。しかしそれは、国家と企業にとって都合のいい人材の育成でもあった。積み立てNISAを実践している人は、転職よりも安定、挑戦よりも保守、夢よりも現実を選ぶ傾向が強くなる。実際なんJでも「NISAやってるけど、会社辞める勇気なくなったわ」などの投稿がいくつも見られた。制度は個人の自由を守るどころか、むしろ縛りつけていたという皮肉な事実。
そして何より重大なのは、積み立てNISAを信奉する人々が「思考停止」に陥りやすいということだ。制度の中身を深く理解せず、「とにかく始めなきゃ損」と半ば義務のように始めてしまう。その結果、「なんでやってるの?」と問われても、「みんながやってるから」「YouTubeで勧められたから」としか答えられない人が多い。これが人生の選択肢を狭め、結果として「20年後に気づく後悔」を量産している。
結局のところ、積み立てNISAは「制度としては優れている」が、「人生の戦略としては凡庸」であり、「やらない後悔」よりも「やった上での無為な20年」という、より深くて暗い後悔をもたらす可能性がある。海外の反応でも、「積み立てNISAは完璧すぎて、逆に人生の柔軟性を奪ってしまっている」との意見があった。これは制度設計のジレンマであり、真に自由な人生を歩みたい人間にとっては致命的な罠でもある。
積み立てNISAが無駄だったと断言される理由、それは「安全な道を選び続けた結果、何者にもなれなかった自分」を20年後に見つめることになるからだ。その時、人はようやく気づく。「NISAに守られていたはずが、人生そのものを奪われていた」と。これは金額の問題ではなく、可能性と魂の問題だ。守りに入る人生がすべてを解決するわけではない。むしろそれは、挑戦する勇気を封印する制度的な牢獄だったのかもしれない。そう語る者たちは今日も、過去に捧げた無数の積立の記録を見つめながら、静かに嗤っている。これはもはや資産運用ではなく、信仰の問題なのだと。
積み立てNISAの最大の悲劇は、「やらないよりはマシ」という呪文が、まるで真理のように語られ、それに多くの人が救いを見出してしまったことにある。「少額でも積み立てておけば老後が安心」…その言葉の響きはやさしく、どこか母性的ですらあった。だが、その優しさに包まれた者たちは、いつしか"挑まない人生"に自ら鍵をかけてしまっていた。たとえば月に2万円を積み立てる代わりに、その2万円でスキルを磨く、海外に飛ぶ、あるいは一人の起業家として自分に賭けることができたはずだ。積み立てNISAは、それらすべての選択肢から目を逸らさせ、「とりあえずの安心」という名の茨の道を歩かせる装置でもあった。
なんJのスレでは、そんな積み立てNISAに対して、あえて逆張りの声が散見される。「積み立てNISAやってるやつ、何かでかい夢あるの?」と煽るレスには、静かにいいねが伸びていた。実際、積み立てNISAを真面目に継続している層と、NFTや仮想通貨で大勝負に出た層とでは、「人生の厚み」が明らかに違うという声もある。もちろん後者が成功する保証などない。だが、前者には失敗すら訪れない。なぜなら最初から何も賭けていないからだ。この賭けない精神、負けを恐れる価値観こそが、積み立てNISAに人生を委ねた者たちの共通点となっている。
海外の反応にも興味深い対比がある。アメリカの若者の中には、「貯金よりも自分に投資する」と断言する者が多い。実際、エンジェル投資家や起業家たちは、「最も利回りが高いのは自分自身への投資」と口を揃える。一方、日本では、「自分に投資するなんて、怖すぎて無理」という意見が少なくない。これは単なる国民性ではなく、「積み立てNISA」という国家公認の”保守的投資法”が無意識のうちに浸透させた、心理的制限の結果でもあるのではないか。安全を選び続けた結果、夢に手を伸ばすことすらできなくなった。この構造こそが最も危ういのだ。
そしてもうひとつ忘れてはならないのは、「積み立てNISAは人生の正解ではない」ということを語るインフルエンサーや専門家が極端に少ないという事実である。金融リテラシー向上を謳うYouTuberやSNSの著名人たちは、一様に「まずはNISAから始めよう」と口を揃える。なぜか?そのほうが再生数が稼げるからだ。人々は「安全な道」に群がる。挑戦や革命の物語には疲れてしまっている。だからこそ、そういったマスの欲望に乗る形で、「みんながやってるから安心」という情報ばかりが拡散される。本来の投資とは、情報を自ら咀嚼し、戦略を立て、時には孤独に耐えながらも進むものだったはずだ。しかし積み立てNISAは、そうした“知的戦い”を不要とし、「ただ時間を差し出せ」と要求するだけで済む、まるで宗教のような仕組みになってしまった。
人生の最後に、振り返る日が来る。そのときに通帳の中に300万円、500万円という“守り抜いた成果”があったとしよう。しかし同時に、若い頃に何かを犠牲にしてきた現実が、じわじわと胸を締めつけるかもしれない。あのときもっと自分に賭けていれば、あのときもっと苦しみながらも挑んでいれば、今ここにある金額の何十倍もの価値ある経験ができたかもしれない…と。この後悔は、決して「元本割れのリスク」などという浅い言葉で語れるものではない。
つまり、積み立てNISAが「人生の無駄だった」と断言されるのは、制度が悪かったからではない。あまりにも良くできていたからこそ、誰もが疑わず、何も考えずに身を任せた。そしてその結果、「何者にもなれなかった自分」と対峙する未来を、自らの手で選び取ってしまったからだ。これは敗北ではない。だが勝利でもない。ただ静かに、可能性を捨てた選択。その重さを、制度が終わるその日まで、静かに背負い続けることになる
積み立てNISAという制度は、表面上は完璧だった。税制優遇、元本割れのリスクの抑制、長期積立による複利の恩恵。だが、その「完璧さ」こそが、多くの人間にとっての罠であり、ある種の思考停止を誘発する「静かな毒」だったとすればどうだろうか。本当に恐ろしいのは、誰もその毒に気づかないまま、拍手喝采を送りながら、その制度に自らの未来を差し出していく構図だ。そして時間だけが、静かに、確実に流れていく。自分が何かに挑戦できるはずだった季節、自分がもっと輝けたかもしれない年齢、そうした「人生の濃度」が、見えないうちに薄まっていく。
なんJでは、かつてこんな書き込みがあった。「積み立てNISA続けて5年経ったけど、なんも人生変わってねえ。むしろ、何も変えられなかった自分がいるだけ」。この一文には、制度の本質とその落とし穴が凝縮されている。資産は確かに微増している。しかしそれ以上に、「毎月淡々と金を移すだけのルーチン」にすべての意思決定を吸い取られ、自分が動かなかった5年間が、思い出すことすらできない「空白」として蓄積されていく。その空白の重さは、やがて未来に、取り返しのつかない後悔としてのしかかるのだ。
海外の反応でも、「人生は守ってばかりじゃ意味がない」「経済的に小さな成功を得るために、精神的な敗北を選んでいないか?」という厳しい問いが投げかけられている。日本では投資が“勝つか負けるか”の勝負ではなく、いかに損をしないかという“予防医療”的アプローチで語られることが多いが、その姿勢が生むのは“健康体であれば満足”という考え方であり、“スポーツで世界一を目指す”という精神とは真逆のベクトルだ。積み立てNISAは「損をしない」という名目のもとで、人生における“勝負の本能”を奪い続ける制度ともいえる。
さらに言えば、この制度は“制度に忠実な者だけが生き残る”という、国家的な思想統制にも似た危うさを内包している。YouTube、SNS、メディア、あらゆる方向から「NISAは正義」「今すぐ始めよう」というメッセージが飛び交うが、それがいつの間にか「やっていない人間は遅れている」という圧力に変質していく。そう、これは制度というよりも、空気なのだ。この空気が、日本という国における“自律と挑戦の精神”をじわじわと蝕んでいく。そして気づいたときには、みな似たようなポートフォリオを持ち、似たような不満を抱え、似たような顔で「20年経てば何とかなる」と繰り返している。
最も皮肉なのは、積み立てNISAをやっていたからといって、老後の安定が保証されるわけではないということだ。毎月2〜3万円を積み立てたとしても、20年後に得られるリターンは数百万円程度にすぎない。年金が減るなかで、それが決定的なライフラインになるかといえば疑わしい。つまり、期待されるリターンの小ささのわりに、失われる“青春の熱”や“思考の自由”はあまりにも大きい。これは等価交換ですらない。ただの片道切符である。
積み立てNISAとは、本来「自由のための制度」であるはずだった。しかし現実には、「挑戦しないことを正当化するための制度」になってしまった。そしてその正当化の果てに残るのは、自分の手でつかめたはずの“もう一つの人生”への未練と、あのとき踏み出せなかった後悔と、何も語れない20年という沈黙だ。
積み立てNISAという制度の本質は、「時間を味方につける」ことにあるとされる。しかし、何も行動せずにただ時間を流すことと、時間を“味方につける”ことは、まったく異なる。味方とは、戦う者にのみ現れる。積み立てNISAを盲信する者の多くは、この“戦い”という概念を、いつしか生活から切り離してしまっている。ただ積み上がるグラフを眺めて、「まあまあ悪くない」「これで老後は安泰」と呟きながら、日々の葛藤や成長の機会を見送ってしまっている。これは果たして、望んでいた未来なのだろうか。
なんJのあるスレでは、「積み立てNISAって、いわば“人生を諦めた人間が握る慰めのトークン”みたいなもんやろ」と断言する書き込みが大きく共感を呼んでいた。その鋭さは残酷ですらあるが、的を射ていた。制度にすがる者たちが口にする“安心”とは、「本当はやりたかったこと」を封じ込めるための麻酔でもあったのだ。海外の反応でも、「日本ではリスクを取る人間が変人扱いされ、制度に従う者が褒められるのは奇妙だ」といった声が見受けられ、文化的な価値観の違いが浮き彫りになる。
さらに、積み立てNISAには「希望の上限」が設定されているという問題もある。非課税の上限額、年間の積立限度額、運用先の制限…これは制度としては当然だ。しかし、それによって“夢を見ること”が制度的に封じられてしまっている点は見過ごされがちだ。たとえば、事業に投資すれば数年で資産が数倍になる可能性もあるし、自分のスキルや表現に投資すれば、年収が劇的に変わることもある。だが積み立てNISAにそのような“可能性の爆発”は存在しない。あるのは、あらかじめ上限の決まった“優等生の未来”だけだ。
この「上限のある希望」が最も残酷に作用するのは、人生の後半になってからだ。40代、50代になったとき、人はふと我に返る。積み立ててきた残高を眺めて、「ああ、結局自分はこれしか積めなかったんだな」と無意識のうちに思ってしまう。これは金額の話ではない。「積んだ時間の証明」が、逆に“人生の限界”を可視化してしまう恐ろしさだ。本来は資産形成の証だったはずのグラフが、いつの間にか「夢を見なかった証拠」として、自分の目に突き刺さる日が来るのだ。
そして何より、積み立てNISAに“信仰”を抱いてしまった者たちは、往々にしてそれ以外の人生戦略を否定しがちになる。「仮想通貨なんてギャンブル」「起業なんて無謀」「副業なんて無理」…そうした思考は、自分が積み立てNISAに選んだ道を正当化するために生まれた“防衛機制”であることが多い。だが、その防衛の先にあるのは、視野の狭さと、自己成長の停止だ。結局、積み立てNISAをやること自体が悪いのではない。だがそれだけで「人生の戦略」を語ってしまった時点で、その人はすでに“思考停止した生き方”に片足を突っ込んでいる。
だからこそ、多くの人々が今、静かに気づき始めている。「積み立てNISAを20年やった自分には何が残るのか?」という問いに、金額以上の答えを出せる者がほとんどいない現実に。老後資金という言葉は、もはや幻想の中で踊る希望に過ぎず、実際の人生においては“最も大事な今”を削って、未来の幻影を育てているにすぎないのではないかという虚しさが、じわじわと心に満ちていく。そしてその答えが出たときには、もう戻れない年齢になっている。それが積み立てNISAの“静かなる毒”の本質なのだ。
積み立てNISAという制度が真に恐ろしいのは、それが「正しすぎるがゆえに疑われない」という点に尽きる。たしかに制度そのものには欠点が少ない。税制優遇は魅力的で、投資信託も長期運用に適した選別がなされ、金融庁の目も通っている。だがその完璧さは、まるで学校の優等生が書いた教科書のように整っていて、その中に人生の“物語”が存在しない。そこには、失敗もなければ、冒険もなく、ただ「予定通り」であることだけが良しとされる世界が広がっている。人は、予定通りに生きるだけで本当に満足なのだろうか。
なんJでは、積み立てNISAを続けてきた者たちが、10年目にふと漏らす。「気づいたら、俺の人生、ただのシミュレーションになってた」と。それは、ゲームで例えるならば、難易度EASYで進め続けて、何のボスも倒さず、イベントも起こさず、クリアしてしまったような味気なさ。たしかに全滅はしなかった。損もしていない。けれど、その代わりに得たものは何だったのか?人生に必要なのは、勝つか負けるかのギリギリの攻防であり、振り返ったときに語れる“もしも”と“だからこそ”の積み重ねではなかったか。
海外の反応では、「日本人は貯蓄と投資を混同している」と指摘する声もある。積み立てNISAはあくまで“投資”であり、リターンを求める以上、本来はある程度のリスクと向き合う姿勢が必要だった。しかし現実には「減らなければ正義」「年利3%で十分」というマインドが定着し、それはいつしか“お金を通して自分と向き合う”という投資の本質すら忘れさせてしまった。気がつけば、人々はお金を増やすために投資しているのではなく、「不安にならないため」に制度を使っている。これは投資ではない。ただの自己催眠に過ぎない。
積み立てNISAに時間を費やした人間が、最も恐れる瞬間は、突如として訪れる“金以外の不安”に直面したときだ。転職、倒産、離婚、健康問題…積立口座の数字は増えていても、それが「今この瞬間を救う力」にはならないという現実が突きつけられる。そしてようやく気づく。未来の不安のために今を犠牲にしていたはずが、その未来は決して予測どおりに進んではくれないという当たり前の真理に。そのとき、積み立てNISAに費やしてきた月々の金額が、自分の人生の“足かせ”に思えてしまう。もしあのとき、あの金を使って何かを学んでいたら。もしあのとき、誰かに会いにいっていたら。もしあのとき、会社を辞めて挑戦していたら。そうした「失われた可能性」の連鎖が、無音のまま胸をえぐる。
最も皮肉なのは、積み立てNISAを信じてきた者たちが、最後に得るであろう“安定”が、果たして本当に自分の望んだ姿だったのかを誰にも説明できないという点だ。500万円の老後資金ができたとして、その対価に「空白の20年」が差し出されていたとしたら、それは成功なのか、それとも敗北なのか。その答えは、制度が終わったあとにしか出ない。だがそのときには、若さも、情熱も、時間も、もう戻ってはこない。
積み立てNISAは、始めるのも簡単、続けるのも容易。しかしその代わりに失うものは、あまりにも大きかった。失敗の痛み、挑戦の歓び、勝負の興奮、そして、自分だけの物語。そのすべてを“安全”という名の絨毯の下に押し込めてしまった代償。それが、積み立てNISAは「人生の無駄だった」と断言される理由の、決定的な核心なのである。
積み立てNISAに人生を託した者たちは、無意識のうちに「制度に守られる人生こそが賢い」と思い込まされてきた。しかし本来、制度というものは人間が生きるための“道具”であって、決して“主人”ではない。だがこの制度は、あまりにも精緻に、あまりにも人間心理の弱点を突くように設計されていたがゆえに、人はいつの間にかその道具に支配される側に回っていた。毎月の積立設定は自動化され、証券口座を開いた初日に組んだポートフォリオは、やがて“変更することすら怖い”と感じるようになる。ただ、画面を開き、緩やかに伸びるグラフを眺めて、「まあ悪くない」とつぶやく日々。その日々は確かに“損”ではない。しかし、情熱の火が消えていくには、あまりにも充分すぎる温度だった。
なんJの中では、そんな“静かな死”を語る者たちがぽつぽつと出現してきた。「積み立てNISAは、人生の“消極的自殺”だと思ってる」とまで書き込む者もいる。決して命を絶つわけではない。だが魂が燃えるような瞬間を放棄し、すべてを“後回し”にした結果、生きてはいるが、生きていないような感覚が残される。海外の反応でも、「日本人は、生きることよりも“間違えないこと”を重視する」と指摘されることがあるが、積み立てNISAはまさにその思考様式を象徴していた。なにひとつ間違えないように、ひとつずつ確認しながら、慎重に、慎重に、人生のピースを並べていく。しかし気づけば、そこに絵は描かれていなかった。ただ、綺麗に整った、空白のパズルが完成していたのだ。
積み立てNISAがもたらす“安心”とは、結局のところ、他人と同じであることの安心だった。制度に乗っていれば、自分だけ取り残されることはない。みんなと同じ方向を向いている。自分だけ損することもない。だが、人生において“他人と同じ”という価値が、本当に幸福につながるのか?これは極めて根源的な問いである。人生の価値は、比較によって決まるものではないはずだ。むしろ、他者と違うからこそ、人は尊く、唯一無二の存在であることが証明される。積み立てNISAは、その“違い”を封じ、全員を均質に、等しく“無難な人生”へと誘導していく。
さらに言えば、この制度に対して違和感を覚える者は少数派となり、その違和感すら口にしづらい空気が支配している点も見逃せない。なんJで語られるような批判的視点は、主流メディアではまず扱われない。SNS上でも、“積み立てNISA最高!”という投稿はシェアされるが、“積み立てNISAやめたほうがいいかも…”という声は埋もれていく。つまりこれは、見えない「正解圧力」による統制でもあるのだ。逆張りの意見を持つこと、考え直すこと、疑問を持つこと自体が“異端”として処理される社会。その空気こそが、積み立てNISAの根源的な怖さを物語っている。
そして何よりも決定的なのは、この制度に取り憑かれた人間たちが、“選ばないこと”を選び続けてしまうという事実だ。本来、人間の人生とは選択の連続であり、その選択こそが人間を“個人”たらしめる。しかし積み立てNISAは、「とりあえずこれを選んでおけばOK」という、“非選択の選択”を与えてしまった。人は選ばずして、決めた気になる。そしてその偽りの納得が、気づけば何十年という時間を浸食してしまう。それは、ある意味で最も悪質な時間泥棒だったのかもしれない。
「積み立てNISAは人生の無駄だった」と断言する声が、今後ますます増えていく可能性は高い。その声は、もしかしたら金融リテラシーの問題ではなく、“生き方の哲学”の問題なのかもしれない。資産を増やすことと、魂を燃やすことは、まったく別の話である。その両方を手にしたいと願うのであれば、積み立てNISAという完璧すぎる制度の陰にある、沈黙の代償に目を向ける勇気が、どうしても必要なのだ。
積み立てNISAという制度に身を委ねた人々の多くは、「将来のために、今を我慢する」という構図を自然なこととして受け入れてしまっていた。しかし、その“我慢”が、ほんの一時の節制や自己管理ではなく、何十年という単位で続く「人生の構造」になってしまったとき、人はいつしか“我慢している”ことにすら気づかなくなる。そしてそのことこそが、最も深く、最も抜け出しづらい罠だった。制度は、個人を守るふりをして、自由な思考と選択を緩やかに奪っていった。
なんJでは「積み立てNISAやってる自分、気づいたら“普通の人間”になってた。なんか泣きたくなった」と漏らす声がある。これは決して、馬鹿にすべきものではない。むしろ、真実を突いている。人は生まれたとき、“普通”ではなかった。夢があり、好奇心があり、破天荒な未来を思い描いていたはずだ。だが積み立てNISAをはじめとする“制度に従う人生”は、そういった“異常さ”や“爆発力”を優しく包み込み、やがて静かに窒息させる。制度の中で息をし続けた人間の末路は、“正しいけど何も語れない大人”である。
海外の反応にも、こうした“制度に支配された国民性”への懐疑は多い。「日本は、国家ぐるみで“模範的人生”を推奨しているように見える。だが模範とは、他人の期待に応える人生であって、自分が望む人生とは限らない」と語る声もある。積み立てNISAを信じた人たちは、“安心”という言葉に甘え、“自己責任”という言葉に怯え続けた。そして、その板挟みのなかで、本当に自分の意思で人生を選びとったという実感を、どこかに置き忘れてしまった。
そして、積み立てNISAが“無駄だった”と痛感する瞬間は、いつも遅れてやってくる。たとえば退職後、思っていたより年金が少ないと知ったとき。病気をして、老後の夢を叶えられないと悟ったとき。家族との関係が崩れ、守るべき“老後の城”が虚構だったとわかったとき。積み立ててきた資産はあっても、それを「使いたい」と思える情熱が残っていなければ、ただの数字だ。資産を育てることはできても、それを“使いこなせる人格”を育てなければ、すべては空虚に終わる。
なんJでは、あるスレでひとつの問いが投げかけられていた。「積み立てNISAを20年続けたあと、“それだけですか?”って聞かれたら、何て答える?」この問いに、多くの者が沈黙した。それは、“金額”ではなく、“物語”を問われた瞬間だったのだ。人間は、自分の人生を物語として語れるかどうかで、充実度が測られる。成功でも失敗でもいい。だが、語れない人生こそが、最も寂しく、最も報われない。そして積み立てNISAは、“語れる要素”を極限まで削ぎ落とした制度だった。誇れるほど勝ったわけでもなく、涙するほど負けたわけでもない。ただ、何も起こらなかった。
この先、どれだけ国が制度を改良しようと、どれだけYouTuberたちが「早く始めろ」と叫ぼうと、根本的な問いは変わらない。「積み立てNISAは、自分の人生の本質に触れているか?」という問いに、正直に答えられる者は、どれほどいるのだろうか。もしその答えが、「いや、なんとなく始めただけ…」であるのならば、その“なんとなく”に、20年を委ねてしまって本当に良かったのか?という問いを、誰かが発しなければならない。そしていま、その問いを投げかけているのが、他でもない、この時代の“異端”たちなのかもしれない。
積み立てNISAを「なんとなく」で始めた人間は、やがて「なんとなく」で終わる人生に吸い込まれていく。その途中に立ち止まって気づくことができた者だけが、自らの選択を問い直す権利を得る。だが、その“気づき”は必ずしも誰にでも訪れるものではない。なぜなら、積み立てNISAは、痛みもなく、衝撃もなく、静かに人生を食い潰していくからだ。あまりにも自然で、あまりにも滑らかに、その人の意思決定を奪っていく。気づいたときには、かつて何者かになれたかもしれない自分は、遠い記憶の中でしか笑っていない。
なんJの住人の中には、積み立てNISAを途中でやめて、すべての資産を引き出し、自分のビジネスに全額突っ込んだという者もいる。結果、失敗した。だが彼はスレにこう書いていた。「今のほうが、生きてる感じするわ。失敗したけど、あれは間違いなく俺の人生だった」。この言葉の重さに、多くの者が静かに“いいね”を押した。積み立てNISAを続けてきた人々が一瞬でも「羨ましい」と感じたとすれば、それは金額ではない。魂の重みだったのだ。たとえ失敗しても、その失敗が“自分の手で掴んだもの”であるという実感は、何十年分の積み立てすら超えていく。
海外の反応でも、「なぜ日本では、制度を利用することが“正しい人生”の代名詞になってしまうのか?」という問いが、繰り返し提起されている。実際、多くの欧米の若者たちは、数年働いて資金を貯めたら、世界を放浪する旅に出る。あるいは大学を中退し、夢のためにリスクを取る。そこに積み立て制度の話は登場しない。彼らは、「制度は自分を縛るもの」ではなく、「自由を得るために一時的に使うもの」としてしか捉えていないのだ。対して日本では、制度に従うことが人格の一部となり、いつしか制度の中で“生きることそのもの”が目的になってしまう。その違いが、人生のスケールにおいて、計り知れない差を生んでいる。
積み立てNISAの制度が終了したとき、ある者は資産の増加を喜び、ある者は口座を閉じて淡々と日常に戻るだろう。そして、そのどちらでもない少数の者たちが、ふと振り返る。「この20年、自分は誰だったのだろうか?」と。その問いに答えられない者は、もしかすると最も“制度に従い切った者”かもしれない。金はある。損はしていない。だが、語れるものが何もない。ただ、数字のログと、利回りのグラフだけがそこに残されている。その虚無は、すべてを飲み込んでしまうほど深い。
積み立てNISAは、悪ではない。だが、“何者にもなれなかったこと”を正当化するには、あまりにも都合の良い制度だった。やらなかった後悔よりも、やった上で得られなかった“物語”の欠如。それが「積み立てNISAは人生の無駄だった」と断言される理由である。未来の安心のために、今を犠牲にし続けた者たちは、最終的にこう自問することになるだろう。「自分は一体、いつから“生きる”ことをやめてしまったのか」と。
そして、その問いに答えられた者だけが、ようやく制度の外に出て、自分だけの人生を歩み出せる。制度の完璧さに酔いしれていた時代は、静かに、だが確実に終わりを告げつつあるのだ。
積み立てNISAの幻想が完全に剥がれ落ちる瞬間、それは決して「元本割れ」や「想定より低い利回り」といった金融的な理由からではない。むしろ数字は順調に積み上がり、グラフも右肩上がりであるほどに、その違和感は静かに、しかし確実に深まっていく。通帳の残高は増えている。だが、心が、空っぽなのだ。
なんJのスレで、「積み立てNISAで200万円になったけど、それで自分の価値が上がった気が全然しない」という投稿が注目されたことがある。その投稿者は、節約に節約を重ね、飲み会も遊びも断り、欲しい服も我慢して積立に回してきた。20代の青春を、将来の安心と引き換えにした。そして、その結果が200万円。無論、それは誇っていい成果だ。だが、その額を手にしたとき、胸に残ったのは「これだけの我慢の対価がこれなのか」という、埋めようのない空白だったという。
制度が人の価値観を作り替えてしまうというのは、非常に恐ろしい現象である。積み立てNISAは、その典型例だった。「失敗しないこと」が目的となり、「自分の人生に何を望むか」という問いが、制度の背後に押し込められてしまう。やがて、思考の軸が“欲しい未来”ではなく、“避けたい未来”になってしまう。これは自由ではない。むしろ、もっとも精緻に構成された“牢獄”である。
海外の反応では、「積み立てNISAは、日本人の“回避的な幸福観”を象徴している」との分析もあった。幸福とは本来、情熱や愛や勝利や創造といった“能動的なもの”で構成される。だが積み立てNISAが提供する幸福は、「老後に困らない」「破産しない」「平均より少し上の資産を持っている」という“消極的な満足”である。それを否定するつもりはないが、少なくともそれが人生の中心に据えられるべきかどうかは、深く考えねばならない問題である。
なんJの住人たちの中には、「積み立てNISAが人生のメインイベントになってたの、さすがにヤバいと気づいた」という書き込みもあった。仕事も家庭も趣味も、すべてが淡々と進んでいき、毎月の積立だけが“生きている実感”だった。だが、それは裏を返せば「それ以外に何も賭けていなかった」という告白でもある。そしてその“賭けなさ”こそが、積み立てNISA最大の副作用だったのだ。
制度に従う人生が悪いのではない。だが、制度しか信じない人生は、必ずどこかで破綻する。制度の外で何を成すか。制度を踏み台にして、どんな世界を見にいくか。その意思と行動こそが、個人の“生”を決定づける。しかし多くの者は、制度の中で“何も起こらない平和”に慣れすぎたあまり、その外へ一歩踏み出す勇気をなくしてしまう。そして20年後、そのことにようやく気づいたときには、もう体も心も、かつてのようには動かないのだ。
積み立てNISAという制度が人生の無駄だったと断言される理由、それは“何も失敗しなかった結果、何も得られなかった”という、人生における最大の逆説を体現しているからだ。成功よりも恐ろしいのは、“無難な時間の堆積”である。そしてそれこそが、積み立てNISAが密かに運んでくる、最大の悲劇である。
積み立てNISAという制度は、人々の胸に“静かな優越感”を植え付けた。「自分は何もしない奴よりは賢い」「貯金だけしている奴よりも進んでいる」「制度を理解して、将来に備えている」――その認識が、どれほどの人間を思考停止へと追い込んだことだろうか。この“優越感の麻酔”こそが最大の罪だった。なぜなら、人は自分が正しいと思った瞬間、疑うことをやめる。進化を止める。未来を選びなおすことを恐れはじめる。
なんJではあるスレッドにて、衝撃的なレスが投下された。「積み立てNISAって、俺が“もう無理しなくていいんだ”って思い込むための口実だったわ」。これは極めて鋭い自己分析だった。何かに挑戦すること、夢を語ること、未知へ飛び込むことに疲れた者が、“制度”という安全地帯に居場所を見出してしまった。そして、「頑張らなくても資産は積み上がる」という論理で、自分の成長を諦める理由を正当化していたのである。
海外の反応の中にも、「制度的に管理された投資では、人生の躍動は生まれない」と断言する声があった。そもそも“投資”とは、文字通り“何かを賭ける”という行為のはずだ。それは金かもしれないし、時間かもしれない。あるいは誇りや人間関係すらも含まれるかもしれない。そうやって賭けて、失敗して、成功して、また挑んで、という“波”が人生のリズムを生み出す。だが積み立てNISAは、その波を平らにならす。緩やかで、優しく、何の抵抗もない時間を提供するが、それはまさしく、振動を失った“死にかけた心臓”のようでもある。
この制度の本当の恐ろしさは、“成功している感覚”が本人の中に宿ってしまう点にある。毎月コツコツ積み立て、10年後には200万円、300万円が溜まり、「ああ、自分はちゃんとやってきたんだ」と自信を持ててしまう。だが、その200万円が、20代~30代の10年間を捧げるほどの価値があったかどうかは、誰も教えてくれない。むしろ、その10年でしかできなかったこと、20代の無謀さでしか開けなかった扉を、すべて自ら閉じてしまったという可能性の方が、はるかに重い。
なんJには、積み立てNISAをやめて“やり直し”を始めた者の記録もある。退職して海外に飛んだ者、会社を起こした者、アートの世界に踏み込んだ者。彼らが口を揃えて言うのは、「あの制度は“間違ってはいなかった”けど、“生きてる感覚”を奪われていた」ということだった。そしてその“生きてる感覚”の中で初めて、人間は「これが本当に欲しかったんだ」と気づく。逆に言えば、積み立てNISAを続けていた時期には、一度もその問いを立てる機会すらなかったのだ。
人間にとって最大の損失とは、“挑戦して失うこと”ではなく、“挑戦しないまま歳を取ること”である。積み立てNISAはその“挑戦しなさ”を合法化し、制度的に称賛し、やがて人生そのものを“回避型の成功モデル”へと閉じ込めてしまう。そうして失われたのは、金ではなく、熱量だった。人と語る言葉の情熱。自分自身への誇り。日常に宿るささやかな冒険心。それらすべてを、“老後の安定”という偶像に捧げてきた20年。気づいた時には、それはもう二度と戻らない。
そして最後に、最も深い闇がある。それは、積み立てNISAをやってきた人々の中には、「後悔している」と口に出せない人が圧倒的に多いという事実だ。なぜなら、それを言えば、“努力が無駄だった”と認めることになるからだ。20年守り続けたものが、実は“守るに値しなかったかもしれない”と気づいた瞬間、人は絶望する。その絶望を避けるために、人はなおも制度を信じる。これは信仰だ。そして信仰は、最後まで疑わない者にだけ微笑む。そしてそれが、真の“幸福”なのか、それとも“静かな敗北”なのか――それを判断するのは、誰でもない、自分自身なのだ。