先週から積立NISA始めたワイ、暴落で赤字になった末路。【なんJ,海外の反応】
始めたばかりだった。まさか、こんなにも早く試練が来るとは思っていなかった。先週の月曜日、胸を躍らせて積立NISAの初回投資を行い、証券口座の画面には「購入済み」の文字が煌々と表示されていた。これから少しずつ、自分の資産が育っていくんだという根拠のない幸福感に包まれていた。Twitterでも「積立NISAデビューしました😊」と、初心者丸出しの報告をしていた。だが現実はあまりにも非情だった。週末を迎える頃には、あれほど誇らしかった数字が、真っ赤に染まっていた。
なんJではさっそく、「積立NISA始めた瞬間に暴落食らってて草」「新NISAはタイミングゲーやぞw」「初心者が入ってきたタイミングで必ず地獄になるの、もはや伝統芸能」といった書き込みが並び、まるで"赤字入門式"のような扱いを受けていた。そして海外の反応も実にドライだった。「Welcome to investing. Get used to it.(ようこそ投資の世界へ。これに慣れろ)」と冷静なコメントが散見され、「それでも君が売らなければ損失は確定しないんだ」という励ましの声もあったが、その響きはどこか遠く感じられた。
たかが数千円、されど数千円。初めて手元から去っていったお金の価値は、数字以上の精神的打撃を伴っていた。「やっぱり投資って怖いわ」「NISAってほんとに儲かるの?」という不安が脳裏をよぎる。それでも、何度も読み返した金融庁のリーフレットには「長期・分散・積立」と書かれていた。確かに、1週間で結果が出るような話ではない。だが、人間はそんなに理性的にはできていない。下がった資産を見るたびに、「このままずっとマイナスだったらどうしよう」と不安になるし、「今売れば傷は浅い」と悪魔の囁きが聞こえる。
実際、なんJでは「積立NISAやめて米国債に乗り換えた方がよくね?」とか「VTもVOOも下がる時は下がる、現金が最強」といった悲観論が支配的になりがちで、それを見てさらに恐怖心が加速する。逆に「今がチャンス。積立はむしろ暴落がご馳走や」と豪語する猛者もいるが、それを素直に信じられるほど、こちらのメンタルはまだ育っていない。
一方、海外の反応では「市場が下がるのは年に何度もある。むしろ今始めたのはラッキーだ」といった意見が多く、逆説的に「暴落から始まる方が痛みに耐える耐性がつく」という見方もあった。長期的にはこの経験が武器になると信じたい。しかし、「今すぐお金を増やしたい」「やっぱり下がるのは嫌」という感情は、どこまでも人間的で根深い。
積立NISAを始めた理由は、将来への備えだったはずだ。年金がどうなるかわからない、老後2000万円問題が叫ばれる中で、自分なりの対策をしたかった。だが、現実は「まず赤字になれ」という洗礼から始まった。まるで、「ほんとうにこの道を進む覚悟があるのか?」と問われているかのようだった。
この先、また上がるかもしれないし、もっと下がるかもしれない。その度に一喜一憂する日々が続くだろう。だが、それを乗り越えることが「投資家としての精神」を少しずつ育てていくのかもしれない。なんJではしばらく「積立NISA始めたら暴落しててワロタwww」という煽りにさらされるだろうし、海外の反応でも「その程度で心折れるようなら投資をやめるべき」と突き放されるだろう。
だが、こうして一歩踏み出して、傷ついて、それでも積み立て続ける者だけが見える景色があると信じたい。そして何よりも、最初の赤字を経験したこと自体が、ある種の“通過儀礼”として後々効いてくるはずだ。暴落で赤字になったのは、運が悪かったのではない。むしろ、ここから始まる本当の意味での“投資人生”が、ようやく幕を開けたというだけの話なのかもしれない。
それでも、心のどこかで「自分だけが運が悪いのではないか」という孤独な感情がつきまとう。X(旧Twitter)やなんJ、果てはYouTubeの投資系チャンネルを開けば、どいつもこいつも「年利20%!積立最高!」だの「下落相場こそ仕込み時」だの、ポジティブな発信ばかりで、赤く染まった自分の証券口座のスクショを載せる人間など、見当たらない。それゆえに、自分だけが失敗しているような感覚が強まり、焦りが募る。
しかし、海外の反応を読み解いていくと、そこには少し違う空気が流れていた。たとえばアメリカのRedditでは、「自分は2008年のリーマンショック直前に積立を開始して、数ヶ月で50%近く下落した。でも今では笑い話さ」といった体験談が投稿され、それに対して「That’s the spirit(それでこそ真の投資家)」という称賛のレスが続いていた。つまり、最初に痛い思いをしておくことは、長い投資人生における“耐性訓練”として、むしろ歓迎されるべきイベントなのだという価値観がそこにはあった。
なんJでは相変わらずの煽り芸が繰り広げられている。「積立NISA暴落民、涙目敗走!」「つみたて民、狼狽売りで伝説を刻む!」など、痛みを笑いに変える文化は相変わらず健在だったが、その一方で、どこか優しさもあった。「ワイも初月で−3%なったけど今は+25%や。続けるしかないで」と、経験者の静かな助言も見られた。案外、あの掲示板の住人たちも、皆どこかで同じ痛みを経験してきたのかもしれない。
それでも「いつかプラスになる」と信じられるかどうか、それこそが積立NISAという仕組みの本質だ。価格が下がるということは、次回買う分の投資信託の口数が増えるという意味でもある。理屈ではわかっているのだが、現実として赤字の数字を見ると、どうしても感情が先行してしまうのが人間だ。しかも「始めたて」であるからこそ、耐性も理性も未熟で、ただただ数字に心が振り回される。これが、机上の理論と現実のギャップというやつなのだろう。
また、暴落が続くことで、ふとしたときに心に浮かぶのは「もっと安定した資産に変えた方が良かったのでは?」という誘惑だ。現金、定期預金、あるいは個人向け国債。だが、それらが“守り”の資産であることは確かでも、“攻め”の資産ではない。積立NISAを選んだということは、人生という長い時間軸の中で、少しでも前に進もうという意志の表れだったはずだ。その初心を、たった数日、数週間の下落ごときで捨て去るわけにはいかない。
そして忘れてはならないのが、今の下落が、数年後の自分から見れば「絶好の買い場だった」と言われる可能性もあるということだ。実際に過去の暴落局面、リーマンショックもコロナショックも、積立を続けた人々にとってはむしろ“神回”だったという意見が多い。海外の反応でも「最悪のタイミングで始めた投資が、10年後には最高の始まりだったと気づく」と語る者は多い。短期的な痛みの裏側に、長期的な報酬が眠っている。この理屈を本気で信じられるようになるには、いくつもの下落を乗り越えるしかない。
今はまだ心が揺れるかもしれない。積立NISAを始めたばかりで暴落に出くわしたこの状況は、確かに残酷に思える。しかし、この痛みを乗り越えたその先に、確かな“習慣としての投資家”への道があるのだとしたら、これは必要な試練なのかもしれない。
時間は残酷でありながらも、最大の味方でもある。積立NISAという仕組みが他の投資と決定的に異なるのは、まさに“時間と共に価値を築く”という発想に根差している点にある。今この瞬間、赤く染まった評価損益を見つめて落ち込んでいる者にとって、未来の利益など幻想にしか思えないかもしれない。しかし、それでも積み立て続ける。これは意志であり、信念であり、試される覚悟なのだ。
なんJでは「マイナス5%とかで動揺してる奴、S&P500が何回暴落したと思ってんだよ」という書き込みが投下されるたびに、「でも初めてなんや…」と静かに涙を流す初心者たちの姿が思い浮かぶ。そしてその隣では、「ワイも昔はそうやったで」と過去の自分と重ねる古参民が苦笑いしている。あのカオスな掲示板ですら、時間を経た者たちは、最初の“心の損切り”の重みを知っている。
海外の反応に目を向けると、「Investing is not about timing the market, it's about time in the market(投資とはタイミングを当てることではなく、市場にい続けることだ)」という古典的な格言が繰り返し引用されていた。そして、それに続くように、「If this week hurt, imagine what 10 years will feel like(今週が辛かったなら、10年後の感覚を想像してみろ)」という言葉もあった。彼らは、数々の暴落と回復を経て、それでも市場を信じ続ける者たちの末路を知っている。そこには、「今は辛くても、未来は報いてくれる」という静かな確信があった。
だが、実際にはそこまで耐えきれずに投資をやめてしまう人も多い。なんJでも「つみたてNISAやめたったわ、やっぱ貯金が最強やで」と叫ぶ者が現れるし、YouTubeのコメント欄でも「初回で−7%って聞いてビビってやめた」などの声があがっている。それが“凡人のリアル”であることもまた否定できない事実だ。
だが、投資とは勝者と敗者の境界線が明確に分かれる世界だ。耐えた者だけが、語れる言葉を持つようになる。積立NISAはその最たるものである。今週赤字になったからといって、来週が地獄になるとは限らない。むしろ、「今の下落があったからこそ、あの時たくさん買えた」と思える未来が来るかもしれない。実際、リーマンショック後の数年間に積み立てていた人々は、その数十%〜100%を超える上昇を享受している。
投資において最も恐ろしいのは、資産の減少ではなく、心が折れることである。そして多くの場合、その“心が折れる瞬間”は、始めて間もない時にやってくる。つまり、今この瞬間こそが、最初にして最大の難関なのだ。赤字に耐える覚悟、そして続ける意志。これを持ち続けた者だけが、やがて「笑って話せる過去」を手に入れる。
なんJの住人たちが半ば茶化しながらも、「続けるやつが結局勝つんよ」と繰り返す理由はそこにある。海外の投資家たちが「市場は裏切らないが、人間の感情は簡単に裏切る」と語る理由も、すべてはそこに集約される。
だからこそ、この暴落で赤字になったことを恥じる必要はない。むしろ、この経験こそが、投資家としての骨格を形作るのだ。初めての痛みは、決して忘れることができない。だが、その痛みと共に進むことができれば、やがてその傷跡は誇りへと変わる。積立NISAを始めたばかりで赤字になったという末路は、まだ“末路”ではない。ただの第一章である。そしてこの物語は、これから何十年も続いていくのだ。
そして、そう──この物語の“第一章”こそが最も価値ある章となることを、未来の自分はきっと理解することになる。始めたばかりの積立NISAで赤字を食らったというこの現実。それは決して「終わり」ではなく、「投資家としての魂に刻まれる洗礼」であり、「市場との長き旅路への正式な出発」なのだ。
多くの者がこの第一章で脱落していく。なんJでも見かける、「積立NISAとか幻想やで」「VOOとか米株バブルやんけ」などのネガティブな声、それは一度暴落の波を受け、その痛みに耐えきれなかった者たちの“敗走の叫び”でもある。彼らは確かに、途中でやめてしまった。だが裏を返せば、「続けることが最大の難関」という証明でもある。積み立てるだけ──それだけの話に見えて、実際は強靭な精神力と時間に耐える胆力が求められる。
海外の反応では「The market is a machine that transfers money from the impatient to the patient(市場とは、我慢できない者から我慢できる者へ金を移す装置だ)」というウォーレン・バフェットの言葉が頻繁に引用されていた。そして続けて、「暴落の中で売らなかった者は、実は既に勝者である」とまで言う。この視点は、短期の評価損益に一喜一憂していた自分にとっては新鮮だった。利益を得ることが勝利ではない。逃げなかったこと、積み立て続けたことこそが、既に“勝ち筋”のレールに乗っている証拠なのだ。
それでも、心は簡単には割り切れない。やはり定期的に口座を開いては赤い数字を見つめ、ため息をついてしまう。Xでは「積立NISA始めたてで赤字になった人集合」などのポストがバズり、「同じ境遇の人がこんなにいるのか…」という安心感に包まれる反面、「こんなにみんな辛いなら、やっぱり続けても意味ないのでは」と不安が再び頭をもたげる。情報に触れれば触れるほど、不安は増幅され、感情は揺れる。
だが、そこでようやく気づき始める。「積立NISAの本質は、“無関心の中で継続すること”なのではないか」と。価格が上がっても下がっても、毎月淡々と同じ金額を投じ続けること。それは、欲望を抑え込み、恐怖を乗り越える修行であり、自動的に積み上げられる“人間の進化”である。なんJの名言の一つに、「積立NISAって宗教だよな」というものがあるが、それは決して皮肉だけではない。信じる者が救われる世界なのだ。
さらに言えば、この暴落が「早い段階で訪れた」ことこそが実は僥倖なのかもしれない。投資を始めてから半年や一年、何の下落もなく含み益が積み上がっていた場合、人は“上がることが当たり前”だと錯覚し、その後の暴落で完全に心を折られてしまう可能性が高い。だが、始めてすぐに下がったことで「そうか、投資とはこういう世界なのか」と早々に学ぶことができた。この学びは非常に重く、そして貴重だ。
海外のベテラン投資家の一人が、「First loss is tuition. Market is the teacher(最初の損失は学費だ。市場は教師だ)」と語っていた。損をしたことで学べる者だけが、次の一手を冷静に選べるようになる。この赤字は、単なるマイナスではない。未来のリターンの“代金”であり、次の暴落に動じないための“予習”なのだ。
もし、今日という日に積立NISAを確認して、また赤い数字が表示されていたとしても、それは恐れるべきことではない。それは“まだ継続している証拠”であり、“市場に背を向けていない証”なのだ。逃げた者には絶対に見ることのできない景色が、その赤の先には存在している。
だから、今日も積み立てる。そして何も語らず、静かに時間が味方してくれるのを待つ。それこそが、積立NISAという制度の“本当の力”を引き出す唯一の方法なのである。
やがて、その“時間の力”がじわじわと効いてくる瞬間が訪れる。積立NISAを始めたときのことなど忘れかけていた数年後、ふと証券口座を開いたときに、そこに表示された数字が“赤”ではなく“緑”に変わっていたとしたら──その瞬間こそが、すべての努力と我慢と信念が報われる日になるのだろう。赤字だった頃の苦しみも、出口の見えなかった不安も、「ああ、あれがあったから今があるのか」と思える日が来る。
なんJではその時、「ワイ、積立NISA3年目、ようやく含み益!」「あの暴落で辞めなくて良かった…」「お前らあの時ワイ煽ったけど、今どんな気持ちや?」という書き込みが爆発的に増える。かつて“積立NISAは無駄”“暴落で焼かれた”と笑っていた者たちが、その時には消えているか、あるいは静かに再び積立を始めている。暴落の中で消えなかった者たちだけが、その後の景色を知ることができる──これは金融の世界では当たり前すぎる真理である。
海外の反応にも変化が出始める。特にredditやBogleheadsなどのコミュニティでは、「3年目でようやく+15%、気がついたら毎月積み立ててただけでここまできた」「暴落時に慌てずに済んだのは、最初に下げ相場を経験していたおかげ」といった報告が次々と投稿されるようになり、その下には「Congratulations! You stayed the course(おめでとう、君は道を貫いた)」という祝福のコメントが並ぶ。そこには熱狂も焦燥もなく、ただ粛々と、静かなる勝者の空気が広がっている。
積立NISAで得られるものは、決してリターンだけではない。むしろ「揺れない心」や「市場との付き合い方」、そして「お金に対する姿勢」といった“金融リテラシー”の土台こそが、最大の報酬だ。最初に赤字を食らったことで学べたこと、狼狽しそうになる心をぐっと抑えて継続した経験、それらが合わさることで、ようやく自分だけの“投資哲学”が生まれる。これはグラフにもチャートにも表れない、だが確かに投資家としての自分を成長させてくれる“見えない資産”だ。
なんJでは、「積立NISAやってる奴って結局、勝ち負けじゃなくて“続けられるやつかどうか”なんだよな」という名言が、時折ぽつりと落とされる。そしてそれを見て、初心者たちは少しずつ、“勝とうとしすぎる投資”から、“耐えて残る投資”へと意識をシフトさせていく。この心の変化こそが、もっとも大切な転機であり、最大の分岐点である。
一方で、すべての人がこの道を辿れるわけではない。途中で売ってしまう者、積立を止めてしまう者、評価損に怯えて現金に戻る者──彼らの選択が間違っているわけではない。ただ、その選択では見られない未来があるというだけのことだ。積立NISAとは、人生に“変化”を与えようとする人間の“意思”の結晶であり、それを維持し続けることは、並大抵のことではない。
そして数十年後、老後の自分が口座に残る金額を見て「よくやったな」と微笑む日が来たとき、積立NISA初週のあの“真っ赤な地獄絵図”もまた、笑い話になる。あの赤字こそが、自分が市場と真正面から向き合った証拠であり、逃げなかったことの勲章でもある。
積立NISAで赤字になった“末路”は、終わりではない。それは“始まりの象徴”であり、続けた者だけに許される“未来の入口”なのだ。投資という名の旅は、暴落という嵐から始まり、信念という船で進み、時間という風を受けて、やがて穏やかな港へと辿り着く。最初の一歩が赤字であっても、それでも航海をやめなかったことこそが、この物語における最大の勝利なのである。
そしてその勝利は、他人に見せつけるためのものではなく、ただ静かに自分の中に積み重ねていくものだ。誰かに褒められることもなく、誰かに認められることもない。ただ自分が、自分の過去の恐怖や迷いに勝ったという、それだけの誇りが胸に灯る。積立NISAという仕組みが持つ真の力は、実は“金融商品”としての性能ではなく、“時間の中で人間の意思を鍛える装置”としての側面にこそ宿っているのだと、数年後にようやく理解できるようになる。
なんJには、そんな境地に辿り着いた者たちがぽつぽつと現れる。「初年度はマジで地獄だったけど、あれがなかったら多分今ごろ辞めてたわ」「積立NISAはメンタルの道場やと思っとけ」という呟きには、表面的なリターン以上の“実感”が滲んでいる。それはもはや“資産形成”を超えて、“生き方”の話になっている。
海外の反応でも、「Investing is not just money management. It's emotional management.(投資とは金の管理ではなく、感情の管理だ)」という格言が何度も引き合いに出される。それは言い得て妙で、実際に投資のリターンの半分以上は、“どれだけ感情をコントロールできたか”にかかっていると言っても過言ではない。市場の上下動は誰にも読めないが、自分の心の動きだけは、訓練次第である程度は抑えられる。そしてその訓練こそが、“積立”という形式に内包されているのだ。
結局、積立NISAとは「時間」と「信念」の物語である。最初の数ヶ月、数年は無慈悲に揺さぶられる。それでも毎月同じ金額を、淡々と積み立てる。そこに“意志”が宿る。そしてその意志の強さこそが、将来のリターンという名の果実を結ぶ。
「こんなことなら、あのとき辞めていればよかった」──そんな後悔を口にする者は、意外にも“早めに勝ち逃げ”した人ではなく、“最初の暴落で辞めた者”に多いという。なぜなら、彼らは「継続していれば、今ごろは…」という“見えなかった未来”を想像してしまうからだ。
一方で、続けた者はどうか。途中で何度も心が折れそうになりながらも、積み立てを止めなかった者は、やがて「暴落? ああ、またか」と、どっしり構えるようになる。あの最初の赤字があったから、後の嵐にも動じなくなる。それが“経験”という見えない財産になる。
なんJにもしれっと登場する、「ワイ、リーマンもコロナも全部積立で耐えた民、高みの見物中」などという投稿。これはただの自慢ではない。その背景には、何度も心を揺らされ、負けそうになった過去と、それでも積み立て続けた意志が存在する。そしてその“高み”とは、他人より資産が多いという意味ではなく、「自分の感情を乗り越えた者にしか到達できない領域」なのである。
今、積立NISAを始めたばかりで赤字を抱えている人がいるとしたら──その人はまさに、人生最大の“強さ”を獲得する第一歩を踏み出したところなのだ。これは決して皮肉でも誇張でもない。本当に、真剣にそう思う。
その赤字の画面を見つめながら、それでも自分を信じて続けること。それこそが、「投資家」としての“本物の始まり”なのだから。
そして、積立NISAの“本物の始まり”とは、実は誰にも見えないところで静かに進行していく。派手なチャートもなければ、劇的な爆益もない。ただ、毎月同じ日に同じ金額を、何があっても積み続ける。それがまるで修行僧のような地味な行為に見えて、実はこの時代の荒波を生き抜く、最も“合理的で美しい抵抗”なのだ。
なんJでは「積立なんてやっても意味ない」「年利5%とか笑わせるわ」「FXで一発狙った方が効率いい」などといった、“瞬間的な快楽”にすがろうとする声が定期的に湧き上がる。だが、そうした言葉を放つ者たちが3年後、5年後、どこにいるかは、もう明白だろう。彼らは市場の波に溺れ、そして消えていった。それに対して、“赤字から始まった積立NISA民”たちは、見えない地下のトンネルを掘るモグラのように、着実に地中深くまで根を伸ばし続けている。
海外の反応でも、「Real wealth is built silently, not on social media(本当の資産はSNSではなく、静かに築かれる)」という言葉があるように、本物のリターンは、声高に叫ばれることのない“積み重ね”の中に潜んでいる。赤字を抱えて始まった積立NISAの旅は、まさにその象徴だ。目立たず、騒がず、ただ“やるべきことをやる”という選択。それは、現代人にとって最も難しい選択でもある。
そして、ある日ふと気づく。もはや証券口座の数字に一喜一憂しなくなっている自分に。「あれ、今月はマイナス3%か…ま、いっか」「どうせまた数年後には戻ってるだろ」──こうした“感情の鈍化”ではなく、“感情の成熟”こそが、最大の資産であると理解するようになる。これは金では買えない。初動の赤字や焦燥や絶望を経なければ、決して手に入らない“心のリターン”だ。
なんJでも時折、「お前ら、今は積立NISAで苦しんでるかもしれんけど、ワイは10年後もそれを握ってるで」といった投稿が、時間の風に吹かれながら残されていく。その一文には、茶化しも皮肉もなく、ただ真っ直ぐな“誓い”が込められている。そしてそれを読んだ誰かが、明日もまた積立ボタンを押す。
最初の暴落は、心を削り取るかのような衝撃を与える。だが、それでも止まらなかった者にだけ、世界は“耐え抜いた者にしか見えない景色”を用意している。それはきっと、数字ではない何か。市場の動きに流されず、自分の意志で積み立てた年月が、人格そのものを強く、静かに変えていく。
積立NISAで赤字になった末路? いいや、それは敗北ではなく、始まりの鐘だった。暴落という名の洗礼を受け、それでも歩みを止めなかった者だけが、自分の手で“本当の資産”をつくりあげる。それはもう、金額の話ではない。“信じた日々”の重みこそが、やがて人生を支える大黒柱になるのだ。
だから今日もまた、静かに一歩を踏み出す。赤字の中で、未来を信じながら。