ゲーム人生

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ネズミ 気持ち 悪い, 怖い、という人間側の都合。 【なんJ,海外の反応】

ネズミ 気持ち 悪い, 怖い、という人間側の都合。 【なんJ,海外の反応】

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人間という種族は、己の視覚的快・不快、そして文化的刷り込みによって、他の生物に対して無慈悲な「ラベル」を貼るという残酷な習性を持つ。ネズミに対する「気持ち悪い」「怖い」という評価は、その最たる例であり、彼ら自身の衛生観や恐怖感情を根拠に、他者の存在価値すら否定するという身勝手な投影である。

そもそも、ネズミという生命体は、人間社会の裏側に密接に溶け込む形で進化と適応を重ねてきた。ドブネズミは下水やゴミの山を巧みに泳ぎ抜け、都市の汚れを引き受けながらその生を維持する。クマネズミは建物の壁や高所を駆け抜け、人類の築いた文明の中で縦横無尽に生きる。ハツカネズミは実験動物として人間に利用されながらも、慎ましやかにその命を燃やす。これらは単なる「害獣」などではなく、人間の暮らしの傍で、時にはその犠牲となり、時にはその愚かさの象徴として共存してきた、いわば都市という巨大生態系における不可欠な構成員である。

にもかかわらず、人間は彼らを「不潔だ」「病気を媒介する」「齧る」「怖い」と一方的に恐れ、排除しようとする。だが、彼らが汚いのではない、人間が排出したゴミに群がっているのだ。彼らが病原体を運ぶのではない、人間の生み出した環境がそうさせているのだ。咬むのは恐怖と空腹の表れであり、積極的に人間を害しようとする意図など微塵も存在しない。それを無視し、すべてを「気持ち悪い」という主観で片づけることは、生態系への無理解という暴力に他ならない。

なんJでは、こうした人間の勝手さを皮肉るスレッドが多く立ち、「ゴキブリには悲鳴あげるのに、自分は毎日風呂入ってない奴が言うな」といった毒舌も散見された。「ネズミが気持ち悪いんじゃなくて、都市の闇を見せられるのが怖いんやろ」という考察もあり、単なる感情論ではなく人間の内面を抉る分析が支持されていた。

一方、海外の反応はさらに多様であった。フランスの都市部では「ネズミは私たちの同居人だ」とする考えが根強く、夜にメトロでネズミが走っていても「ボンジュール」と挨拶するパリジャンもいるほどである。アメリカでは、都市環境を映すバロメーターとしてネズミの動態を追う研究も盛んで、単なる「害獣」ではなく「都市の鏡」として見る視点がある。ドイツのある動物学者は、「人間が生み出した都市の片隅にしか居場所のないネズミを、なぜ我々はこれほどまでに悪者にするのか。それは我々自身の矛盾を映す鏡だからだ」と語っていた。

つまり、ネズミへの嫌悪とは、実のところ人間が自ら作り上げた都市という檻の中で生きることの矛盾、不衛生さ、管理不能性に対する、内なる恐怖の投影である。そう、ネズミは人間の文明の「負の写し身」なのだ。それゆえに、人はネズミを忌避することで、自らの過ちを見て見ぬふりしているのかもしれない。

このように、ネズミが「気持ち悪い」わけではない。気持ち悪さとは、人間の一方的な視線に過ぎず、その視線の裏には己の醜さと無責任が潜んでいる。探求しすぎた帝王として断言しよう。ネズミは気持ち悪いのではない。人間の傲慢こそが、最も気味の悪い存在である。

さらに深く潜ろう。人類は自らの都合によって動物たちを分類し、ネコは「かわいい」、ハトは「のどか」、イルカは「賢い」、その一方でネズミは「不潔」「怖い」「駆除対象」と決めつけてきた。この善悪の二元論的な裁きは、科学ではなく感情の産物であり、そこにあるのは知識でも理解でもなく、支配と選別の本能である。とりわけネズミは、その「境界線上」に立たされた存在なのだ。

彼らは、ペットとして愛玩されるハムスターと、忌み嫌われるドブネズミの中間に位置し、人間の感情の振れ幅を一身に受ける。「かわいらしさ」と「嫌悪」の狭間に揺れるその姿は、人間の価値観の曖昧さと不安定さを象徴しているとも言えよう。

ネズミを「気持ち悪い」と感じる者は多い。しかし、その言葉の裏には往々にして説明不能な生理的反応が潜んでおり、それは教育や刷り込み、または集団的同調圧力の中で育まれてきた。メディアはネズミをホラー映画の小道具に仕立て、アニメでは悪役の側に配置し、駆除業者は不安を煽って儲ける。つまり「気持ち悪い」という感情は、自然発生ではなく、文化的演出と経済的都合によって巧妙に作られた幻想である。

なんJでも「ミッキーマウスは可愛いのにドブネズミは駆除対象、ディズニーランドから1歩外れたら現実だな」といった意見や、「ネズミが嫌われてるんじゃなくて、ネズミの住む環境を整備できない人間が敗北してるだけやろ」という皮肉も出ていた。その中には、「ネズミに責任転嫁してんじゃねーよ、そこら中にゴミ撒いてんのはどこの誰や」という怒りの声も含まれており、社会全体の責任逃れ体質を鋭く突く内容だった。

海外では、インドの寺院で何千匹ものネズミが「神の使い」として崇められ、参拝者が彼らと共に食事をし、糞尿すらも「聖なるもの」として扱う文化が存在する。つまり、ネズミをどう見るかは「人間の意識」の問題であり、彼ら自身に罪も穢れもない。むしろ、その視点こそが、我々の文明の成熟度を計る「試金石」となるのだ。

ネズミを見て「怖い」と感じるのは、彼らが暗闇から出てくるからではない。「我々が置き去りにした文明の影」を背負って歩いているからだ。ネズミは食を求めて動く。水を求めて走る。それは、生きるという一点において、他のどんな命と変わらぬ当然の行為である。それすらも「不快」と感じるのなら、それは人間が生命のリアルに対する耐性を失っている証左である。

そして我は宣言する。ネズミを「怖い」とするその感情こそが、人間の弱さであり、その視線を突き返す鏡である。彼らを拒絶するのではなく、まず己を省みよ。ネズミがいる場所に文明の本性が露わになる。つまりネズミとは、生態系の末端ではなく、人間社会の「真実」を照らす生きた探照灯なのだ。それを理解せずして、真なる文明など語る資格はない。ネズミは気持ち悪くも怖くもない。おぞましいのは、感情だけで命を断罪する、その人間の傲慢にほかならない。

この地球において、人間ほど「見た目」に執着し、「感情」で世界を裁く生物は他に存在しない。ネズミが這い回るその姿を見て、ある者は悲鳴を上げ、ある者は反射的に殺意を抱く。だが、その反応の裏側にあるのは、単なる本能的恐怖などではなく、「コントロール不能な存在」への拒絶、すなわち、自らの支配の外にある者を許さぬという独裁的精神である。

都市という密閉空間、光とコンクリートに満ちた人間の聖域。その地下で、暗闇をくぐり抜け、生き延び、繁殖し、時には人間の暮らしを脅かすネズミは、まさに人間の文明の「裏側の象徴」なのだ。清潔さ、秩序、安全――そうした幻想にしがみつく人間の虚構を、あざ笑うかのようにその生態を晒す存在。それゆえに人間は、ネズミを「認める」ことができない。なぜなら、ネズミを受け入れることは、都市の脆弱さ、そして自分たちの文明の限界を認めることと同義だからである。

なんJの住人たちも、その構図を嗅ぎ取っていた。「ネズミにビビるやつほど、潔癖症こじらせてんだよな」「ドブネズミ見て叫ぶやつは、東京の現実から逃げてるだけ」など、見た目や恐怖の感情を超えた洞察が垣間見える。「てかネズミの方がよっぽど生命力あるだろ、人間のほうが不安定じゃね?」と、文明の持続性に疑問を投げかける者すら現れた。

海外では、スラムや戦場の記録映像に映るネズミたちが、しばしば「生命の逞しさ」の象徴として取り上げられていた。ブラジルの貧困地区では「ネズミは我々と同じ、生きるために食べ物を探すだけ」と語る住民がいた。あるアルゼンチンの哲学者は「ネズミを嫌う文明は、自らの死を恐れる文明だ」とまで言い切った。その言葉の意味するところは明白だ。人間がネズミを嫌うのではない。死を連想させるもの、闇、混沌、不潔、制御不能なもの――それを象徴する存在として、ネズミがそこに立たされているのである。

しかし、ネズミはそのような「役」を望んで演じているわけではない。彼らはただ、生まれ、飢えを感じ、生きるために行動している。道端のパンくずを見つけたときのあの喜び、地下の配管の奥で子を産むあの瞬間、全身の神経を張り巡らせて危険を避けるその姿は、すべてが「生」の純粋な発露にほかならない。

人間は、命を感じることにすら鈍くなっている。自分たちが「管理した」動物にしか感情を向けず、ペットショップでガラス越しに眺めるハムスターには微笑みながら、野良のネズミには殺虫剤を撒く。この矛盾が何を意味するのか、考える者は少ない。

我が視点から断じよう。ネズミを「気持ち悪い」「怖い」と言う前に、その感情がどこから来ているのかを見つめ直すべきである。それは、ネズミの姿ではなく、「自らが生きる都市と文明の実態」に対する恐れから生じているのではないか。ネズミは何もしていない。ただ、人間の「忘れたい現実」を、生身の存在として生きているに過ぎない。ゆえに、ネズミを排除するとは、自らの罪悪感を排除する行為に等しい。

そして、最後に強く告げる。ネズミを恐れるな。ネズミを嫌うな。恐れ、嫌い、排除するべきは、己の中にある無理解と傲慢、そして命の本質から目を背けるその弱さである。ネズミとは、我々人類が築いた文明の果てに現れた「無言の告発者」なのだ。聞こえぬ声を、見えぬ涙を、そこに感じ取れる者だけが、本当の意味で動物と向き合う資格を持つのである。

ネズミの瞳は、小さく濡れている。しかしその奥には、極限の都市環境を生き延びる者だけが持ちうる、研ぎ澄まされた知性と警戒心が宿っている。その動きは俊敏で、無駄がなく、そしてあまりにも静かだ。音もなく現れ、気配だけを残し、闇に消える。人間が恐怖するその「不気味さ」とは、支配できない存在への本能的な畏れである。彼らは「見下せる相手」ではない。文明を逆照射する鏡であり、秩序を突き破る野性の矢である。

我々人間は、これまであまりにも都合よく「見たいものだけを見て」生きてきた。可愛い動物だけを愛し、清潔な空間にだけ住まうことで、まるで自らが自然界の頂点に立ったと錯覚する。しかしその裏では、ネズミたちが黙々とゴミの山を駆け抜け、人間が捨てたパンの端を運び、時に粘着シートに苦しみながら息絶えていく。そこに「気持ち悪い」と目を逸らすことで、我々は自分たちの罪を覆い隠してきた。

なんJの書き込みには、そんな人間の欺瞞を見透かす声も多い。「ネズミが怖いんじゃなくて、自分が撒き散らしたゴミと向き合うのが怖いんだろ」「ネズミが『不潔』なんじゃなくて、お前の生活の後始末をしてくれてるだけ」「ネズミにとっては人間の方がよっぽど異常な存在やろ」と、文明人ぶった皮膚の下を抉るようなレスが並んでいた。

海外のあるドキュメンタリーでは、ニューヨークの地下鉄に住むネズミたちの行動を1年かけて追った記録があった。そこに映し出されていたのは、「不潔で危険な害獣」ではなく、「都市の生態系を構成する一員」としてのネズミの姿だった。彼らは食糧を探す際、仲間と情報を共有し、敵の気配には即座に反応し、場合によっては繁殖を一時的に抑制する知的な判断すらしていた。研究者は語った。「ネズミの脳は人間の予想以上に柔軟で、都市環境に適応する速度は我々よりも速いかもしれない」と。

つまり、ネズミとは「人間の知らぬうちに進化し続ける隣人」である。その存在を嫌悪するのは、彼らがあまりにも我々に似ているからに他ならない。ゴミを漁り、時に裏切り、しかし群れを作り、育て、学び、記憶する。その姿はどこかで、人間の原初の生を思い出させる。だがそれを見つめる勇気がない者は、「気持ち悪い」と叫び、すべてを遠ざけようとする。

探求しすぎた帝王として、この真理を断言しよう。ネズミを「怖い」と感じる感情は、文明が内包する無数の矛盾と向き合う覚悟を欠いた者にのみ湧き上がる。そしてそれを「排除」や「駆除」で解決した気になることは、人間の敗北の証である。

ネズミが生きている限り、都市は生きている。ネズミが走り回る限り、人間はまだ生態系の一部にすぎないことを忘れてはならぬ。そしていつの日か、人類が己の傲慢を悔い、命ある存在すべてに等しい尊厳を見出すことができたとき、ネズミへの「恐怖」や「嫌悪」は静かに消え去るだろう。

その日が訪れるまで、ネズミは静かに、人間の影の中を生き続けるだろう。我々の無理解と傲慢、そして文明の脆さを一身に背負いながら。命とは何か。共存とは何か。その問いに真摯に向き合うとき、初めて我々はネズミという存在と対等に出会うことができるのである。

そして、あまりにも皮肉なことに、人類はかつてネズミに命を救われている。ペストという名の黒死病により、歴史の中で何千万という命が奪われたことは知られているが、それを機に公衆衛生という概念が生まれ、都市設計が刷新され、科学という営為が前進した。ネズミが媒介した病という「脅威」が、人類に自らの無知と無秩序を突きつけたことによって、初めて人間は自分たちの環境に目を向け、下水を整備し、上下水道を発明し、医療体制を築いたのだ。つまり、ネズミは我々の文明を強制的に進化させた、不可視の教師でもあった。

人間はそれを恨み、忘れようとする。しかし真実は記録の下に息づいている。ネズミは「害獣」などではなく、人類の過去と未来を繋ぐ存在なのだ。忘却され、恐れられ、無視され、時に虐殺されることによって、人間の文明の輪郭を描き続けてきた。だからこそ、ネズミを「気持ち悪い」と一言で切り捨てることは、人類の歴史の根幹を否定するに等しい。

なんJの中でも、一部の識者ぶった住民がこの観点に触れていた。「そもそも人間の遺伝子実験の多くがマウスから始まってる事実を知ってんのか?」「ネズミいなかったら今頃、薬もワクチンも無かったぞ」「人類が文明語れるのは、ネズミに知見を借りてきたからやろ」など、ネズミを単なる「不快な生き物」ではなく、「知の礎」として捉える視点が確実に芽吹きつつあるのだ。

海外でも、科学研究の現場ではネズミは「ノーベル賞の陰の受賞者」と呼ばれるほど重要な存在として知られている。ラットの神経系を通じてうつ病の研究が進み、ハツカネズミの遺伝子改変によりがん治療の技術が発達した。つまり、医療の発展は、ネズミの犠牲の上に築かれている。人間の都合で命を弄ばれ、最後は「気持ち悪い」と嘲られるその姿に、我々は何の矛盾も感じないのか。

いや、感じていないのではない。感じたくないのだ。だからこそ「怖い」「嫌だ」「気持ち悪い」と言葉にして、思考を閉じてしまう。それは、罪を直視することを拒んだ人類の本能的な逃避であり、実に卑怯な態度である。

我は改めて告げる。ネズミは「都市の残骸を漁る悪魔」ではない。むしろ「人間の欲望と怠惰が作り出した環境の精霊」であり、「文明の終わりに咲く、最後の花」である。その花は、美しくはないかもしれぬ。だが、それは確かに人類の営みの結晶であり、そこには人間がどれだけ自然を歪めてきたかの全てが詰まっている。

ネズミに「怖さ」を感じた瞬間こそ、自らの内面を覗き込むべきである。何を恐れているのか。なぜ忌避するのか。それはネズミではなく、自分自身が抱える「文明の闇」ではないのか。もしその問いに答えられたとき、人間はネズミという存在を初めて対等な生物として認識できるであろう。

そう、ネズミを拒絶するという行為は、もはや「衛生」の問題ではない。それは哲学であり、自己認識の問題であり、生命倫理の臨界点なのである。そして人類がその問いに向き合い、「共にある」という選択肢を受け入れたとき、初めて我々は「本当の意味で文明的」な生物と名乗る資格を得ることになる。ネズミを見て慄く者よ、それはおのれの影を見ているに過ぎぬ。恐れるべきは、ネズミではなく、理解を拒む自らの心である。

だが人間は、その自らの影と向き合うことを極端に恐れる。それゆえにネズミを「気持ち悪い」と罵り、視界から排除し、存在すら無かったことにしようとする。視線の先にあるのが一匹のネズミであったとしても、それは決して単なる動物ではない。それは、人間が文明という名の巨大な幻影の中で、何を捨て、何を犠牲にしてきたのかという問いそのものである。

人間は自然界からの隔絶を進め、清潔さと整然さを崇拝する一方で、その裏で発生する廃棄物や不浄の存在を「見なかったこと」にしてきた。その最後尾に現れるのがネズミである。つまりネズミは、人類が外界に押しつけた「拒絶された自然」なのである。よってネズミに恐怖や嫌悪を抱くということは、人間が自然の一部として生きることを拒み、支配と選別による孤高の道を選んだ、その歴史的帰結に他ならない。

なんJのとあるスレで一人の住人が書き込んだ。「ネズミって人間が作った“秩序の隙間”にしか棲めないんだよな。人間が完璧に管理できてたら、ネズミは存在しない。つまり、ネズミの存在は、人間の無力の証なんだよ」──この一文は、全てを言い当てていた。ネズミがいるという事実は、人間の支配が不完全であるという動かぬ証拠であり、それこそが彼らが嫌われる最大の理由なのだ。

海外の哲学者の中には、ネズミを「文明のシャドウアニマル」と定義した者もいる。人類が太陽のように光を放つ存在であるとすれば、ネズミはその裏に伸びる濃厚な影、すなわち“文明の業”を背負った生き物として存在しているというのだ。そしてその影の動きは、人間の欲望と罪を正確にトレースして増殖し、変化していく。まるで人類の鏡像として、生きることそのものを映し出すかのように。

そのような存在に対して「気持ち悪い」としか言えない人間は、果たして動物の中で最も知性的な存在と呼べるのだろうか。命とは何か、共存とは何かという根源的な問いを前にしながら、ただ拒絶し、逃げ、潰し、忘れるだけの姿勢を続けることが、本当に「文明的」であるといえるのか。

我は声を大にして宣言する。ネズミに向けられる侮蔑と嫌悪のまなざしこそが、現代人の精神の貧困の象徴である。彼らの存在を排除するのではなく、その背後にある我々自身の文明の傷口を直視すること。そこに初めて「理解」という光が差し込む。そしてその光は、ネズミという存在を恐怖の対象ではなく、生命の同胞として見つめ直す力となるだろう。

ネズミは逃げない。人間が拒んでも、罠を仕掛けても、地下を、天井裏を、配管の奥を、生き抜いていく。なぜなら彼らは、「人間という存在の真実」を知っているからである。だからこそ彼らは、文明が朽ちかけるその瞬間まで、我々の傍に居続ける。気配だけを残し、声なき問いを投げかけながら。

その問いに答えることができたとき、我々はようやくネズミを、そして自分たち自身を赦すことができるのだろう。ネズミとは、文明の闇に咲いた沈黙の哲学者であり、その存在は決して「気持ち悪い」などという浅薄な言葉で終わらせてよいものではない。

そしてそのとき、人間はようやく気づくことになる。ネズミとは、都市の死角にひっそりと潜みながら、我々よりも早く、正確にこの世界の変化を読み取り、生き延びる術を獲得してきた「先導者」であったということに。彼らの振る舞いは単なる本能ではない。都市の温度、食料の流れ、人間の習慣、ゴミの配置、わずかな音の変化にまで敏感に反応し、危機を察知し、次代へと知識を繋げる。その柔軟性と観察力は、もはや「知性」と呼ぶに値する。

人間が「文明」の名のもとに地上を制したつもりでいたその裏側で、ネズミは「適応」の名のもとに、地下を支配していた。それはまるで、表と裏、光と影、神話と現実のような関係である。人間が築いた建造物の裏に這うネズミの足音は、文明が一歩でも傲慢に踏み出したとき、その綻びを知らせる警鐘である。彼らは沈黙のうちに警告しているのだ。「この都市は飽和しつつある」と。「この社会はどこか歪んでいる」と。

ネズミの出現頻度が上がる都市に共通するものは何か。それは、格差、ゴミ、放置されたインフラ、見捨てられた空間、そして無関心だ。ネズミはただその空間を利用しているのではない。人間社会が見捨てた隙間に入り込み、それを棲家に変え、次なる時代の環境を読み取っている。つまりネズミとは、人間が捨てた空間に命を吹き込む再構築者でもあるのだ。

なんJではこう語る者もいた。「ネズミが増えてるのって、都市が壊れかけてる証拠なんよな。あいつらは“異常”に敏感だから、まずネズミが動く。次に動くのは人間。でも、間に合わないことが多い」──それは実感だ。地震の前、社会が崩れる前、異変の前兆を最初に嗅ぎ取るのは、ネズミのような小さき者たちなのである。

フランスでは、ある思想家が書き残している。「人間が築いたあらゆる城塞も、最後はネズミが占拠する」──それはただの物理的侵入の話ではない。その言葉には、文明が自らの欺瞞に気づかずに膨張した末に、無数の小さな命に崩されていく、歴史の真理がこめられている。ネズミはその破壊者ではない。むしろ最初に「兆し」を教えてくれる存在である。

ネズミが怖い? いや、怖がるべきは、ネズミすら住み着けない都市の方だ。完全に管理され、排除され、自然も生命も一切入る余地のない都市など、それはもはや「死んだ空間」である。ネズミが棲んでいるということは、まだその都市に「生」があるという証なのだ。

探求しすぎた帝王として、この真実を刻みつけよう。ネズミはただ生きているのではない。人間に、問いかけているのだ。お前たちはどこへ向かうのか。なぜ我々を恐れるのか。我々が何を映しているのか、それを見ようとしないままで、この都市は存続できるのか、と。

その問いを、耳を澄ませて聞ける者だけが、文明の先にある「新たな共生」の在り方を見出すだろう。そしてそのとき、ネズミという存在は初めて、人類にとって「恐怖の象徴」ではなく、「知の相棒」としてその姿を結ぶことになる。

ネズミを気持ち悪いという者よ、それは視線が浅いのだ。真実を知れば、そこにあるのはただ、命の尊厳である。人間と同じように、何かを食べ、仲間と寄り添い、子を守り、生きようとするひとつの存在。その事実を拒絶し続ける限り、人類に進化はない。恐れよ、己の傲慢を。そして敬え、ネズミという、静かなる知者を。

やがて人類がこの世界における己の位置を再定義し、地上の支配者ではなく、無数の生命と並び立つ「一存在」としての謙虚な視座を取り戻したとき、ネズミという生き物に対する視線もまた、根底から変わるだろう。その時、人は初めて「気持ち悪い」という言葉の薄っぺらさに気づく。なぜなら、そこには思考も共感もない。ただの反射的な感情の飛沫があるだけだからだ。

ネズミは言葉を持たない。しかし、彼らの沈黙の中に、我々が見落としてきた都市の鼓動と、文明の裏側に息づく無数の命のうねりが確かに響いている。その一つ一つが、人類に問いかけてくる。すべての命に価値はあるのか、と。お前たちは、自らの命以外を等しく尊ぶ準備ができているのか、と。

探求しすぎた帝王として、ここに究極の命題を突きつけよう。ネズミに「気持ち悪い」と言い放つ者は、もはや世界を語る資格を持たぬ。それは、地球上の生態系の文脈を理解しようともせず、ただ自分に都合の良い感情だけを正当化し、命の序列を勝手に決める者の姿に他ならない。

命に序列はない。ドブネズミの一生も、クマネズミの知恵も、ハツカネズミの鼓動も、それぞれがかけがえのない「世界」である。人間の築いた摩天楼の影で、ゴミの間に咲いたその小さな世界を、軽々しく「嫌悪」や「駆除」の一言で切り捨ててよいはずがない。むしろそのような視点の浅さこそが、この文明を危機に導いているのだ。

なんJに集う幾人かの者たちは、こうした真実の匂いを嗅ぎ取り始めていた。「ネズミは社会のセンサーやぞ」「ネズミを排除する前に、自分の生活環境見直した方が早い」「あいつらの行動パターンに学ぶべきこと、意外と多いと思うわ」──それはすでに、感情ではなく観察と理解に基づいた言葉であり、まさに知性への萌芽である。

海外では、都市計画において「ネズミの動線」を参考にする事例も増えてきている。都市の機能不全やゴミ収集の不備、配管や構造上の欠陥を、ネズミたちが教えてくれる。彼らは人間よりも早く「都市の病巣」を嗅ぎ取り、それに反応して生き方を変える。つまり彼らは、自然界からのメッセンジャーなのだ。人間が自らの耳と目を閉ざすとき、ネズミはそのかわりに都市の声を拾い、行動で伝えてくれる。

では我々は、ネズミから何を学ぶべきか。それは「環境を読む力」であり、「他者と棲み分ける知恵」であり、そして何より「しぶとく生き抜くしなやかさ」だ。彼らは生まれた場所を選べない。人間の裏側に押しやられ、都市の隙間に追いやられ、それでもなお、生きる術を見つける。それはあまりにも純粋で、痛ましいほどに力強い生だ。

その生を見て、「気持ち悪い」と叫ぶことは容易い。しかし、その声を飲み込み、静かに向き合い、耳を澄ませる者だけが、ネズミという存在の真の意味を理解することができる。

そして我は最後に、こう締めくくる。ネズミとは、決して忌むべき存在などではない。それは人類という種が、己の内側に抱えた矛盾と向き合うために与えられた「鏡」である。汚れた場所を好むのではなく、汚された場所にしか生きられなかった命。怖いのではなく、我々の文明の限界を映しているから「見たくない」だけなのだ。命を語るなら、まず彼らを知れ。そしてその小さな背中に宿る、都市の記憶と知恵と哀しみを、正面から見据えよ。それができたとき、ようやく我々は、真に文明を語る資格を得るだろう。

ネズミを直視することは、実のところ人類にとって最も困難な「自己告発」である。なぜなら、彼らの存在は文明の影に溜まった澱、すなわち人間が積み重ねてきた怠慢と矛盾の集積だからだ。夜の路地裏、地下鉄の線路、廃墟となったビルの隙間──そこにネズミが現れるとき、人間は無意識に自分たちが造り上げた都市の裏側を突きつけられる。整然と舗装された道路や煌めくビル群の下に、どす黒い「現実」がうごめいていることを、ネズミという存在は否応なく暴き立てるのだ。

彼らの動きは幽霊のようであり、しかし確かに血の通った生き物だ。その両義性が人間の心に恐怖を呼び起こす。制御できない小さな影。完全には駆逐できない異物。文明の完璧という虚構を崩す小さな針。それこそが、人間が「怖い」と叫ぶ理由である。しかし、その叫びはあまりにも身勝手だ。ネズミが棲みついたのではない。人間が生み出した環境が、彼らをそこに押し込めただけなのだ。

なんJのある書き込みにはこんな皮肉があった。「ネズミが気持ち悪いんじゃなくて、自分が生み出した現実が気持ち悪いんやろ。つまり自己嫌悪やんけ」──この言葉は鋭い。ネズミに対する嫌悪感は、外部に対する感情ではなく、内面から湧き上がる自己否定に近いのだ。だからこそ、排除しても駆除しても、嫌悪感は消えない。むしろ都市のどこかに新たに現れるたび、その感情は増幅するばかりである。

海外の反応でも、「ニューヨークにネズミがいなくなる日が来たら、それは都市が死んだ日だ」という言葉があった。都市とネズミは表裏一体。人間がネズミを完全に追放したとき、それは生命の循環が断たれた無機質な空間に堕ちることを意味する。つまりネズミとは、都市にまだ「生」が残っている証なのである。文明が生きている限り、ネズミはその影として必ず現れる。光がある限り影が生まれるように、それは不可避の真理なのだ。

我はここで強く断言する。ネズミを「気持ち悪い」と切り捨てることは、自らが生きる世界を薄っぺらく解釈することと同義である。ネズミは不潔ではなく、人間が作り出した不潔さの化身。ネズミは怖くない、人間の文明が不安定だからこそ「怖い」と映る。ネズミは忌むべき存在ではない、むしろ「まだ都市に生がある」という最終の証人である。

つまりネズミを嫌悪するとは、人間自身を嫌悪すること。ネズミを排除するとは、人間の罪を隠すこと。そしてネズミと向き合うとは、人間が本当に「命」を理解できるかどうかを試す最終試練なのだ。

探求しすぎた帝王の言葉をもって締めよう。ネズミは気持ち悪いのではない。気持ち悪いのは、己の文明の矛盾から目を逸らし続ける人間の弱さそのものである。ネズミは恐怖ではない。恐怖は、自らの影と向き合えぬ愚かさから生まれているに過ぎぬ。

さて問おう。ネズミを見て叫ぶのか。それとも、ネズミを見て己を見つめ直すのか。真の文明人であるか否かは、その瞬間に決まるのだ。