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日本人にイスラム教が全くと言っていいほど受け入れられない理由とは?。【なんJ,海外の反応】

日本人にイスラム教が全くと言っていいほど受け入れられない理由とは?。【なんJ,海外の反応】

まず、この問いに真っ正面から向き合うには、日本という共同体が、いかに「外部」を排除することで内部の秩序を保ってきたかを徹底的に理解せねばならぬ。日本人にとっての宗教とは、生活の一部である以前に「空気」であり、「気配」であり、「儀礼」にすぎぬ。つまり、それは制度や教義に根ざした絶対的な真理の探求ではなく、周囲との和を保つための潤滑油のようなものにすぎない。神社で手を合わせ、クリスマスにケーキを食い、葬式では南無阿弥陀仏。そうした「なんでもあり」の相対主義的宗教観に染まった日本社会において、イスラム教が抱える「一神教的絶対性」「戒律の厳格さ」「生活への全面的介入」は、異質の極みと映る。

労働の場においても顕著だ。例えば、定時に礼拝のための時間を確保するイスラム教徒の姿勢は、日本の職場文化、すなわち「残業は美徳」「空気を読むことが正義」「上司の命令は絶対」といった精神論的労働観と衝突する。昼食時に豚肉を避ける食文化ですら、「あいつだけ特別扱いか?」といった同調圧力の中で浮いてしまう。つまり、日本の労働文化が同質性と空気支配によって成立している以上、個人の信仰や思想は抑圧され、標準化され、排除される傾向にある。

また、歴史的文脈においても、日本には「イスラム世界」との深い接点がほとんど存在してこなかった。シルクロードの時代に仏教や儒教が流入したような大規模な文化接触がなく、西欧キリスト教文明との対峙を明治以降で経験したのと比べても、イスラム教に関しては単なる「よくわからん異文化」としてしか認識されていないのが現実だ。その無知ゆえの無関心、そして無関心がもたらす偏見。メディアが報じる中東の紛争やテロ、女性のヒジャブ、シャリーアといった要素が断片的に刷り込まれ、結果として「怖い」「閉鎖的」「危険」といったレッテルを貼られる構造ができあがっている。

なんJでもよく見かけるが、「日本にモスク建てんな」とか「ラマダンって仕事に支障でるやん」とか、宗教的無知に基づいた短絡的な拒絶反応が多数ある。もちろん、そこには単なるネタとしての過激な言説も含まれているが、その奥に潜むのは「日本的秩序に入り込むな」という無意識の排他性だ。

海外の反応でも興味深い指摘がある。「なぜ日本ではムスリムへの理解が広がらないのか?」という問いに、ヨルダンの女性がこう述べていた。「日本は、あまりにも清潔で秩序正しい社会なので、外からの『混沌』を怖れているのではないか」と。フランスの大学教授も、「日本はイスラム教徒に対して差別というより、無関心という暴力を向けている」と語った。これは非常に的を射ている。拒絶すらしない、見えない存在として扱う。それは、目立つより残酷な沈黙だ。

さらに言えば、日本の教育の中で宗教というものが「避けるべき話題」「内心の自由の問題」としてタブー視されてきた影響もある。宗教=カルト、信仰=洗脳、という極端な価値観が支配し、「宗教を真面目にやってる人間」は警戒の対象になる風潮が根強い。よって、「ムスリムです」と堂々と公言する者は、それだけで「怪しい」「面倒くさそう」という先入観に晒される。労働現場でそれは即ち「採用しない」「チームに入れにくい」「配慮が面倒」という不利益につながる。

加えて、日本語という言語空間自体も、この排他性を強化する。「阿弥陀様」「八百万の神々」「お天道様が見てる」など、曖昧で多神教的な表現が一般化している一方、「アッラー」や「唯一神」という発想は、日本語空間において異物として浮く。つまり、言語が文化の母体である以上、日本語という精神世界のなかでイスラム教は居場所を見つけづらい。

最後に、日本人の「内と外」の線引きの強さも忘れてはならない。内=うちの仲間、外=異物、という日本的共同体観は、同質性を何より重視する。服装、食事、話し方、働き方、礼儀、時間感覚……そのいずれかがズレるだけで「異質な存在」とみなされ、集団から遠ざけられる。その中で、イスラム教徒が掲げる明確な信仰のスタンスや生活習慣は、どうしても「外」と認識されやすいのだ。

イスラム教そのものが日本人にとって受け入れがたいのではなく、日本という社会構造そのものが、信仰というものを「異質な個人主張」として見なす文化土壌なのだ。そこには差別よりも深い「文化的無関心の構造」がある。労働において、教育において、生活様式において、イスラムは「干渉してくるもの」「和を乱すもの」として位置づけられ、結果として「なじまない」「面倒くさい」「関わりたくない」という態度が無意識のうちに形成されていく。それが、この国におけるイスラム教排除の深層にあるのだ。

この日本社会におけるイスラム教への“受け入れられなさ”は、単に文化の違いとか宗教の教義の相違という浅いレベルの話にとどまらない。もっと根本的な部分、つまり「日本人の自己認識」そのものが深く関係している。日本人というのは、無意識のうちに「我々は無宗教である」「中立である」「信仰に偏らない」と思い込んでいる節がある。しかしこれは欺瞞だ。実際には、神道と仏教の混交、社会儀礼化された祖先崇拝、目に見えない神秘への敬意といった、極めて宗教的な精神世界のなかに生きている。

だがそれを宗教と認識せず、「信仰は自由だが、あえて持たないのが成熟した大人の姿勢」といった価値観が暗黙のうちに共有されている。その結果、明確に宗教的な生活をする人間――つまり一日5回の礼拝、ラマダンでの断食、豚肉忌避、スカーフ着用など――が現れた途端、それは「大人げない」「空気が読めない」「日本社会の文脈に合わない」となる。言い換えれば、日本人にとって「無宗教であること」こそが宗教的ドグマになっており、イスラム教徒のような“明示的信仰者”は、その枠外に位置づけられてしまうのだ。

また、この国では「自分の信仰を他人に見せびらかすな」という空気が支配的だ。信仰を表明するという行為そのものが、「押しつけがましい」「異質なものの主張」に見えてしまう。そして、これこそが最大の誤解である。イスラム教徒にとって、礼拝や断食は「他人にアピールするための行動」ではなく、あくまで“神との契約”であり、自らの内面の鍛錬である。だが、日本社会はそれを「自己主張」「協調性のなさ」と読み違えてしまう。このすれ違いが、ますますイスラム教徒を孤立させる。

さらに、イスラム教の存在は「近代的合理主義」から逸脱していると誤解されやすい。科学技術を重視し、経済合理性と効率を優先する日本において、「断食」「祈り」「宗教的規律」は、どこか非合理的で、時に“前時代的”にすら映る。この感覚もまた、深く根付いた“西洋的近代”への信仰と言ってもいい。その結果、「信仰のために働けない時間がある?」「豚肉食べない?業務に支障が出るじゃん」といった短絡的な思考に帰着する。

なんJでは、「イスラム教って何がそんなに偉いんだよ」「宗教にかこつけて我儘言ってるだけやろ」みたいなレスが散見される。だがこうした言葉の背後には、「みんなが我慢して働いてるんだから、お前も黙って従え」という日本的労働の呪詛がこびりついている。つまり、イスラム教のように“我慢の方向性が違う者”に対して、それが理解できないのではなく、「その我慢が空気とずれているから許容できない」のだ。

海外の反応では、トルコの男性が「日本人は他者の信仰を否定しないふりをして、結果的に全く理解しようとしない」と語り、インドネシアの女性が「日本は安全で親切な国だが、ムスリムにとっては孤独になりやすい」と指摘していた。カナダからの反応でも、「日本は宗教的寛容というより、宗教的無知の上に成り立っている」と皮肉が述べられていた。

これらの指摘は、いずれも核心を突いている。日本社会における“表面的寛容”は、実のところ“徹底した無関心と画一主義”に過ぎない。そしてその構造は、宗教的少数者を静かに追い詰める。制度としての差別ではなく、空気による排除。これは明文化されたものではないが、むしろそれが厄介なのだ。可視化できぬ圧力こそが、もっとも人を孤独にする。

イスラム教は、神への服従という厳格な原理のもと、共同体を形成し、日常のあらゆる行動を信仰によって律する宗教である。一方、日本人の多くは「空気への服従」「人間関係の保守」「表面的平和」を優先する。つまり、どちらも“服従”を重視しているが、その対象が違いすぎる。神か、空気か。その根本の違いこそが、日本人にとってイスラム教が“まったくといっていいほど受け入れられない”真因である。

そして何より、現代の日本人が信じているのは、宗教ではなく「勤労」「経済」「調和」「平凡」の美学だ。その中に、祈りや断食、戒律といった“非生産的”な行動が入り込む余地は限りなく少ない。宗教が人間の魂の居場所であるという真理が、もはや「古くさいもの」とされる社会構造において、イスラム教のような“魂に重みを持たせる体系”は、見えない壁に阻まれるのだ。日本においては、信じるより、黙って働く方がずっと尊ばれている。ゆえにイスラム教は、魂の重みを取り戻そうとする者にとって、逆説的に最も遠い場所に置かれてしまう。

このような日本社会の宗教的空白地帯ともいえる土壌において、イスラム教が孤立するのは必然とも言える。なぜなら、そこでは「信仰とは人生そのものである」というイスラム的世界観が、もはや成立し得ないからだ。日本における信仰の扱いは、冠婚葬祭の儀礼的枠組みに封じ込められ、魂の営みとしての信仰は徹底的に矮小化されている。つまり、“信じる”という行為そのものが、生活の中から制度的に、文化的に消去されている社会なのだ。そのような場で、神への従属を軸に据えるイスラム教徒は、否応なく「浮く」。

日本の労働空間においては特に顕著だ。多くの企業にとって、“効率的に働くこと”“生産性を出すこと”“人と違う行動を取らないこと”が至上命題である。そんななか、イスラム教徒が「金曜の礼拝に行きたい」「豚肉を避けたい」「ラマダン中は日中の食事ができない」といった主張をすると、「特別扱いを求めてるのか?」「皆に合わせろ」といった形で静かに排除される。この日本特有の“空気による躾け”が、法的な差別や直接的な偏見以上に、イスラム教徒を日本社会から遠ざけていく。

また、“宗教を語ること自体が気持ち悪い”という日本特有のメンタリティも、イスラム教にとって不利に働く。信仰の話をすると、「意識高い系か?」「洗脳されてるのか?」「宗教なんて胡散臭い」といった反応が返ってくる。このようにして、信仰をもつ者は、自分の内面を表明することすら難しくなっていく。日本では、“無信仰であるふり”をすることが、実は社会生活の前提条件になっているのだ。

なんJでもたびたび見られる、「宗教やってる奴って基本的に弱者だよな」「頼るものがあるって時点で終わってる」などというレスの数々は、日本社会の根底にある“信仰嫌悪”を象徴している。これは決してイスラム教に限った話ではない。キリスト教でも、仏教でも、あるいは創価学会や幸福の科学でも、宗教団体に所属しているとわかれば、「関わりたくない」「距離を置こう」となる傾向が強い。信仰を「理屈や論理では理解できない、非合理的で危険なもの」とみなす無知の結晶、それが現在の日本社会に蔓延している価値観である。

さらに、イスラム文化圏と日本との「距離感」も決定的である。欧米のように移民として長く隣り合わせに暮らしてきた歴史もなければ、植民地支配や戦争といった濃密な接触経験もない。そのため、「身近にイスラム教徒がいない」という事実が、誤解や偏見を修正するチャンスすら奪っている。イランやサウジアラビアと聞いても、ピンと来る日本人は少なく、ニュースで報じられるのはほとんどが戦争、テロ、厳格な女性差別のような負のイメージばかり。情報が断片的で、実像に触れられないからこそ、人々の中でイメージが一人歩きする。そしてその「よく知らない」という状態こそが、最も強力な無関心と偏見の温床となる。

海外の反応では、イギリスのムスリム系ジャーナリストがこう述べていた。「日本では、差別の問題は目に見えない形で進行する。誰も“ノー”とは言わないが、すべてのドアがそっと閉まっていく。」この言葉は、まさに日本におけるイスラム教徒の置かれた立場を象徴している。

つまり日本において、イスラム教は“拒否されている”のではなく、“最初から存在しないものとして扱われている”のである。拒絶よりも、無視。怒りよりも、沈黙。この「見えない壁」が、イスラム教徒にとって最も乗り越えがたい障壁なのだ。存在を主張した瞬間に、空気を乱す者として排除される社会では、信仰者が堂々と生きることは極めて困難である。

日本がイスラム教を受け入れられないのではない。日本社会が、あらゆる“個としての主張”を受け入れない構造になっている。その最たる表象として、イスラム教は無視され、すり潰され、時には冷笑される。そしてそれこそが、日本という国の、目に見えぬ信仰的貧困の証明でもあるのだ。

この目に見えぬ信仰的貧困こそが、現代日本人の精神的な「内的飢餓」を引き起こしている最大の原因であるにもかかわらず、多くの者はそれに気づかぬまま、物質的な充足に逃げ、消費と娯楽によってその空白を埋めようとしている。だが、魂の飢えはエンタメでは癒されない。人は「なぜ生きるのか」「どう生きるべきか」を問わなければ、どれほど裕福になろうが、孤独からは逃れられない。イスラム教とは、その問いに対して明確な指針を持つ宗教であり、生きる意味を「神への服従」という形で定義づける壮大な思想体系である。日本社会にそのような問いの余地が欠落しているからこそ、イスラム的な世界観は“場違い”に映る。

一方、イスラム教徒が日本で生活する場合、彼らはその信仰を妥協するか、あるいは静かに社会の端に身を置くしかない。礼拝する空間はない、ハラール食は極めて限定的、ラマダンの断食も「体調悪いの?」と誤解される始末。言葉の壁以上に、文化的な“共感の不在”こそが、彼らを孤立させる最大の壁なのだ。

なんJでは、「ムスリムの主張、毎回ちょっと強すぎるんだよな」「俺らに配慮求める前に、まず溶け込めよ」といった発言が見られる。こうした言説の根底にあるのは、「こちら側が基準であり、そちらがそれに合わせるべきだ」という一方的な同化主義だ。そしてそれが“無意識の優越感”と結びつくことで、「イスラム教=後進的」「イスラム教徒=閉鎖的」という偏見が温存され続ける。

この「多数派の常識を疑わない構造」こそ、日本が他文化を受け入れる上で最大の障壁である。イスラム教は、その存在だけで“我々の常識”を揺るがせる。なぜなら彼らは、「祈ることが仕事より大事」「断食が精神を清める」「女性の尊厳は露出ではなく隠すことにある」と考える。それは日本における労働至上主義、外見重視、他人に合わせることが美徳という価値観に対する“静かな異議申し立て”なのだ。

海外の反応でも、マレーシアからの声が興味深い。「日本に長年住んでいるが、彼らは善人だが、信仰という概念に対して異様に無知で、時に冷たい。イスラム教に限らず、神を信じているというだけで、面倒くさい存在として扱われる」。スウェーデン出身の旅行者も言っていた。「日本は、礼儀や秩序がある分、内面に踏み込むことを極端に避ける社会。だから、信仰のような“魂の部分”に触れると、皆が逃げてしまう」。

つまり、日本人がイスラム教を受け入れられないのではなく、「宗教を持つこと」「信じること」「内面の深さをさらけ出すこと」そのものに耐性がないということだ。それは歴史的にも文化的にも、日本が“共同体内の和”を最優先にしてきた結果であり、個の内面を抑圧し、目立たないこと、空気を読むこと、沈黙を守ることに重きを置いてきた帰結である。

イスラム教は、日本人にとって「知らないから怖い」ものではなく、「知ろうとすると自分たちの空虚さに気づいてしまうから避けたい」存在なのかもしれない。そして、それこそが最大の障壁だ。真に他者を理解するには、自らの価値観の根底を疑う必要がある。しかし、日本社会はそこに踏み込むことを極端に忌避する。そのため、イスラム教は異文化の壁にぶつかるのではなく、「日本人自身の内面にある未解決の精神的空白」に跳ね返されてしまうのである。

そして最後に述べるならば、イスラム教が日本社会に受け入れられる日が来るとすれば、それは単に宗教的寛容が広がるからではない。むしろ、日本人自身が「働くだけの人生に意味があるのか?」「金や肩書だけが幸福の尺度なのか?」といった根源的な問いを、自らの魂に向かって投げかけざるを得ない局面に直面したときだろう。そのとき初めて、イスラム教が内包する“神との契約としての人生”の思想が、日本の精神世界にじわじわと浸透する可能性が生まれる。

だが、今のこの“空気を読んで生きるだけの社会”においては、イスラム教はあまりに重く、深く、そして異質すぎる存在なのである。だからこそ、全くと言っていいほど受け入れられないのだ。

このような構造的・文化的な障壁に囲まれた日本社会において、イスラム教が“受け入れられない”という現象は、単に他者理解の未熟さではなく、日本人自身のアイデンティティの危うさを映す鏡でもある。というのも、本来イスラム教とは、厳格であるがゆえに、人間の尊厳、共同体との調和、そして真理への追求を本質に据える極めて深遠な信仰体系である。それに対して、日本社会に蔓延しているのは、自己を空気に同化させることでしか社会に属する術を持たぬ、“自己の空洞化”という深刻な精神的問題である。

その空洞を、宗教的信仰や哲学的探求ではなく、「働くこと」「役に立つこと」「迷惑をかけないこと」といった“社会性の模範”で埋めようとする風土が支配している。この価値観は、一見すると謙虚で、協調的で、成熟しているように見えるが、実は「内面への立ち入り禁止」を前提に成立している非常に脆弱なものであり、そこにイスラム教のような“内面中心主義”が入る余地はほとんどない。

なんJでは、「イスラム教徒が日本に合わせないのは自己中心的」「宗教を盾にして融通が利かない」といった意見が多く見られるが、それはイスラム教徒が“内面の信念を社会的都合で曲げることを拒否する”からであって、彼らの自己主張ではなく、“信仰という軸を持った生き方”そのものに対する畏怖と不理解からくる拒絶反応なのだ。つまり、日本社会では「内面に芯があること」が、むしろ怖れられている。

海外の反応でも、「日本人は表面上は礼儀正しく見えるが、信仰の話になると極端に無口になる。これは教育や文化によるものかもしれないが、宗教的対話が成立しない」との声があり、イスラム圏だけでなく、キリスト教やヒンドゥー教圏の人々も、日本人の“宗教的沈黙”を不可解に感じている。これは多文化共生社会とは程遠い、いわば“和の名を借りた排他的同調主義”の一端でもある。

さらに厄介なのは、日本における“宗教の自由”の概念が、法的には存在していても、文化的にはほぼ空洞化しているという事実である。たとえば「信仰の自由はありますよ」と口では言いつつも、「でもうちの会社ではラマダン中でも普通に昼食会に出てもらいます」「祈る時間に席を外されるのはちょっと…」という矛盾した対応が現場ではまかり通る。この“建前の自由と実質の不寛容”こそが、日本でイスラム教徒が精神的・社会的に孤立する最大の要因である。

また、日本社会における“宗教に対する羞恥”も見逃せない。これは「信仰がある=洗脳されている」「宗教の話をする=ヤバい人」「神を信じる=科学を否定する原始人」という三重の偏見として根を張っている。だが、イスラム教徒にとって、宗教とは“生きることそのもの”であり、祈りは単なる儀礼ではなく、“日常に神を通す行為”である。つまり、生きることと信じることが分離していない。

そのような信仰観は、日本の「仕事と私生活を分けるべき」「宗教は個人の問題で公に出すな」「みんなが気持ちよく過ごせる空気が最優先」という分断的・表層的価値観とは根本的に相容れない。よって、イスラム教徒が普通に生きているだけで、「なんか違う」「馴染まない」「面倒くさい」となるのは、彼らが特別だからではなく、日本の側にこそ“内面の深度に耐えられない社会構造”があるからに他ならない。

最終的に、イスラム教が日本社会で受け入れられるかどうかという問題は、単に宗教的寛容の問題ではない。それは日本人自身が、「何を信じるのか」「どう生きたいのか」「魂を誰に預けるのか」という根源的な問いを避け続ける限り、永遠に答えの出ない問題となる。日本社会が、自らの“無宗教の仮面”を剥がし、空気ではなく信念によって自らの存在を支える覚悟を持った時、ようやくイスラム教という深遠なる信仰と向き合う土壌が生まれるかもしれない。

だが現時点では、それは遠い。なぜなら、日本社会においては、「働くこと」「空気を読むこと」「面倒を起こさないこと」が、“唯一絶対の神”だからだ。ゆえに、イスラム教という本物の神の存在は、未だに“受け入れられない”どころか、“想像すらされていない”。それこそが、日本人にとって最大の盲点であり、同時に最も深い孤独の源でもある。

この“想像すらされていない”という状況こそ、日本という社会が直面すべき最も根源的な問題である。イスラム教が何を信じ、なぜその信仰を生活に徹底して組み込むのか。その理由を知ろうともしないまま、「なじまない」「わかりづらい」「怖い」とレッテルを貼るこの国の態度は、外の世界との接触を拒む内向性の証であり、その根底には“精神的自己完結”という、きわめて日本的な閉鎖性が潜んでいる。

かつて日本は、外来文化を柔軟に取り込み、仏教や儒教、キリスト教文化の一部すらも巧みに自国化してきた歴史を持っている。だがそれは、あくまで“日本的価値観に変換可能な要素”だけを取り込むという、一方的で条件付きの受容だった。すなわち、日本社会は「外来文化の日本化」には長けているが、「自らが変容すること」を極端に嫌う。それは言い換えれば、“相手の土俵に立たない”という姿勢だ。

イスラム教は、日本的な“相対化”“曖昧化”“協調圧力”では吸収できない硬質の核を持っている。絶対的な唯一神、明確な戒律、時間と空間を貫く祈り、生活全体を貫く神との契約――これらは、和をもって尊しとする日本的社会設計において、最も異質な存在となる。だからこそ、イスラム教は“日本化されること”を拒み続ける。その拒絶の構造に、日本人は無意識のうちに恐れを感じる。

なんJの書き込みにも象徴的なものがある。「イスラム教って、日本のどこにも居場所ないよな」「信仰が生活のすべてって、現代人としてどうなんだよ」など、そこには“信仰にすべてを預ける生き方”への根源的な不信と恐れが垣間見える。だがその恐れは、裏を返せば、“自分たちには預けるものがない”という精神的空白への怯えでもある。神の不在、信仰の不在、問いの不在――これらが積み重なった結果、日本人の精神は、合理性と労働によって自我を支えるしかなくなった。

海外の反応でも、特にサウジアラビアの男性が言っていた言葉が印象的だ。「日本人は礼儀正しいが、深い会話を避ける。私たちにとって神は会話の中心だが、日本では神という単語を出すだけで空気が凍る」。また、アメリカの大学教授がこうも言っていた。「日本は無宗教というより、“宗教的感覚を怖れる文化”だ」。まさにその通りだ。日本では、神を語ることすら“マナー違反”になりうるのである。

これは文化的多様性の問題ではない。労働問題でもない。宗教教育の有無でもない。これは、魂の話だ。信仰を持つとはどういうことか。人が自分の生を、どこに委ね、何のために耐え、何を拠り所にして苦しみと向き合うのか。それを持たない社会が、すべての信仰を「扱いにくいもの」として避けるのは当然であり、そして悲劇でもある。

イスラム教を拒絶するこの構造の根底には、「日本的信仰の空白」がある。祈りがなく、信念がなく、信仰が“厄介なもの”とされる社会は、豊かに見えて、実は精神の荒野である。そして、その荒野のなかに、神とともに歩むことを選んだ者が現れたとき、その姿は、まるで異星人のように映る。だが、それは彼らが異質なのではない。こちら側が“信仰を失った”だけなのだ。

イスラム教が、日本でまったくと言っていいほど受け入れられない最大の理由――それは、イスラム教が「神とともに生きる」という、ごく当たり前の人間の在り方を、そのまま体現しているからである。そしてそれは、日本社会にとって、最も痛いところを突く存在なのである。神を語れない国に、神とともに生きる者が現れるとき、人々はその存在に、静かに背を向ける。それが、“拒絶ですらない拒絶”という、日本的排除の本質なのだ。

この“拒絶ですらない拒絶”こそが、日本社会の対イスラム構造において、最も根深く、最も静かで、しかし最も鋭利な刃である。露骨な差別もなければ、法制度上の弾圧もない。それゆえに問題は可視化されず、改善も議論も生まれないまま、「なかったこと」にされる。そして、信仰を持つ者の側が、いつの間にか“黙る”ことを強いられてゆく。これは表現の自由や信仰の自由の問題というよりも、「存在していることの不自由」という、より深い問題である。

イスラム教徒にとって、祈ること、断食すること、ハラールを守ることは、単なる習慣ではない。それは「神との契約」であり、「自らの生を神の意志に沿わせる」という覚悟の表れである。しかし、日本においては、その行動が一つ一つ「融通が利かない」「異文化を押しつけるな」と解釈され、結果として“目立たないようにしてくれ”という無言の圧力に変わる。

日本の職場、学校、地域コミュニティという空間では、こうした無言の圧力が極めて強力に機能する。特に労働の場では、「皆と同じ時間に動く」「皆と同じように食事する」「皆と同じ価値観で成果を出す」という前提が共有されている。そこでは、たとえ制度としての配慮が存在していたとしても、「周囲の目」によって個人の行動は制限されていく。

なんJの中には、「豚肉が食えないとか日本に住む意味ある?」「信仰より職場の雰囲気を優先しろよ」といったコメントが投稿されていたが、これは“合理性”を口実とした“精神的集団主義”の象徴である。日本社会では、“皆が我慢しているのだから、お前も我慢しろ”という同調圧力が絶対的正義として機能しており、その文脈では、信仰による“例外”が極めて敵視される。

海外の反応においても、日本に長く滞在したインドネシア人の留学生がこう語っていた。「日本人は親切だが、信仰の話になると突然壁ができる。祈りの時間を確保したいと言うと、優しく微笑まれながらスルーされる。それが一番つらい」。また、エジプト出身のビジネスマンは、「日本人は“表面の礼儀”に重きを置くが、“魂の交流”は存在しない。だから私たちは、親切にされても孤独だ」と語っていた。

この“親切という名の孤独”が、日本におけるイスラム教徒の現実を象徴している。差別ではない、敵意でもない。しかし“関心のなさ”と“沈黙の強制”が、宗教的少数者の存在を社会からじわじわと滲ませ、気づかれぬまま摩耗させていく。これは、あまりに静かな断罪であり、誰にも責任が見えないがゆえに、永続する。

日本社会が本当の意味でイスラム教を受け入れるということは、単にモスクを建てることでも、ハラール食を提供することでもない。それは、「信仰とは何か」「生きる意味とは何か」「自らの存在を何に預けるのか」という問いを、国民一人ひとりが再び真正面から見つめ直すことを意味する。そしてその過程で、日本人自身がこれまで封じてきた“魂の声”と向き合わねばならない。

だが、その問いを避け続けてきた社会が、いきなりそれを受け入れるにはあまりにも長い時間が経ちすぎている。敗戦後の高度経済成長期に、信仰よりも生産性、魂よりも技術、祈りよりも働くことが正義とされてきたこの国では、精神的問いは“非効率”として排除されてきた。その積み重ねが、今なおこの国を形づくっている。

つまり、イスラム教が受け入れられないという事実は、日本人がいまだ“信じる”という行為に正面から向き合っていない証拠なのだ。信仰は、理解する前に尊重しなければならない。だが日本人は、「理解できないものは配慮できない」「配慮できないものは、遠ざける」というロジックに無意識に従っている。その精神構造こそが、イスラム教という存在を、遠くの異物として処理してしまっている最大の要因である。

最終的に問われるべきは、“イスラム教が日本に合うのか”ということではなく、“日本という社会が、人間の信仰という最も根源的な感情と、どう向き合う覚悟があるのか”ということである。そして今のところ、その答えは――否である。だからこそ、受け入れられないのだ。完全に、静かに、深く、そして絶望的なほどに。