ゲーム人生

人生はゲームのように華麗だ。

ゴキブリのせいで、今夜、寝れない 【なんJ,海外の反応】

ゴキブリのせいで、今夜、寝れない 【なんJ,海外の反応】

人類の文明がいかに発展しようとも、光輝く高層ビルの片隅で、ベッドの下で、換気扇の隙間で、なおもその存在を誇示し続ける漆黒の影がある。名をゴキブリという。その姿を一度でも目の当たりにした者は、例外なく心拍数を高め、全神経を皮膚表面へと集中させ、そして「今夜は寝られない」という覚悟を強いられる。

特に夏場のそれは悪夢に等しい。湿度と気温が上昇することで、ゴキブリの行動範囲と活動性は指数関数的に高まり、まるでこの世の王者かのように闊歩する。しかもやつらの時間帯は深夜である。人間が眠りに落ちようとするその刹那に、カサカサと音を立て、壁を這い、天井を駆け、時には飛翔する。飛翔である。羽ばたきというにはあまりに重く、鈍く、威圧的な音を伴うこの行為により、脳内には警戒信号が強制的に点滅し、交感神経がフル稼働する。目は見開き、毛穴は開き、眠気は吹き飛ぶ。

なんJでは「深夜テンションで一人で叫んでしまった」「ティッシュで仕留めたけど震えが止まらん」「台所で出たから、もう水も飲めない」など、怨嗟の声が多数上がっている。そして、誰一人としてその夜、安眠を得た者はいない。

海外の反応に目を向けても、「日本のGは戦闘機か?あんなスピードで飛ぶ虫はこっちにはいない」「アジア旅行中に部屋で出た。以後、真っ暗では眠れない体質になった」「パリでは見たことなかった。日本に住んで一番のカルチャーショックだった」と、文化を超えてもゴキブリの存在は人間の精神を蝕んでいる。

そして最も恐ろしいのは、「姿を見た」という記憶が、その後の数時間から数日にわたり人間の精神の深層へと巣くうことにある。駆除に成功しても尚、「まだいるかもしれない」という不確定性が、己の脳内に仮想のゴキブリ像を投影し続けるのだ。ベッドの端、毛布の裏、天井の角、部屋の灯を消せばなおさら幻想が具現化し、「うわっ!今、なにか動いた」と錯覚させる。これは脳内にゴキブリが棲みついた状態に等しい。

冷房を切ったら出てくるのではないか。電気を消した瞬間に這い出してくるのではないか。スマホのライトを当てた隙間から、あの黒光りするボディがヌッと出てくるのではないか。その想像力が過剰に働き、もはや目を閉じることが許されなくなる。

つまり、「ゴキブリによって寝られない」という現象は、ただの物理的な脅威ではない。精神への侵略であり、個人空間へのテロであり、人類が構築してきた“安心して眠れる夜”という文明の基盤を、根本から揺るがす行為なのである。ゴキブリとは、夜の支配者であり、文明の裏側に棲む野蛮なる記憶装置なのだ。

深夜、静寂の中、空調の音すら耳障りになる時間帯において、ふとした物音が「奴」かもしれないという疑念に変わる。寝返りの瞬間にシーツの中に何かがいるかもしれないという妄想に支配される。そうなってしまったら、もう敗北である。

人類が火を発明し、電気を操り、宇宙へと進出しようとも、ひとたびゴキブリが一匹出現しただけで、個人の夜は地獄と化す。その夜、人は「寝られない」のではない。自らの意思で「眠ることを放棄せざるを得ない」のである。それこそが、ゴキブリという存在の本質であり、その恐怖の根源である。

この「ゴキブリによる不眠」という現象の深層をさらに掘り下げるならば、やつらが引き起こすのは単なる物理的恐怖ではなく、自己のコントロール感の喪失である。人間は、自室という空間を最後の聖域だと信じ込んでいる。鍵をかけ、掃除をし、寝具を整え、エアコンを設定し、照明を調節し、「ここでは自分がすべてを支配している」と無意識に思い込んでいる。だが、その支配幻想をたった一匹のゴキブリが、無言で、だが圧倒的に破壊する。

カサカサッという音が、全ての静寂を壊す。視界の隅に一瞬映る黒い影が、あらゆる快適さを粉砕する。そして、潰したつもりが見失った瞬間。そこからはもう、地獄の幕開けだ。どこに行ったのか、今どこに潜んでいるのか、それは分からない。が、確実に“どこかにいる”。この不確定性が、脳を焼き、神経を磨耗させる。

なんJでは「退治できなかったから今日は寝ずに監視する」「部屋の真ん中で正座して朝を待ってる」「ベッドの下にいるかもしれないから寝れん。布団の中で息を殺してる」など、生々しい報告が相次ぐ。そしてどの書き込みにも共通しているのは、眠るという行為に対して完全な敗北宣言をしている点だ。

海外の反応でも、「ベトナム滞在中、夜中に目が覚めたら胸の上に乗っていた」「ドイツでは暖房の中から出てきた。数日眠れなかった」「インドの安宿で天井に10匹以上が動いていた。逆に眠ったら食われると思った」という報告があり、睡眠という本能的な行為すらゴキブリは人類から奪う。

しかし、最大の問題は「なぜそこまで精神を支配されるのか」という点にある。これは、ゴキブリという存在が人類の進化史において長く「死と腐敗」と結びついていたからに他ならない。ゴキブリが現れる場所は、古来より“何かが壊れている”場所だった。衛生が崩壊した環境、腐臭漂う廃屋、死体の近く――その記憶が、DNAレベルで人間に刷り込まれているのだ。つまり現代人が快適な部屋であってもゴキブリに恐怖し、夜眠れなくなるのは、本能が「この場所は安全ではない」と警告しているからなのである。

そして、その警告は一晩で消えることはない。翌日も、翌週も、ふとしたタイミングで脳裏に「また出るかもしれない」という予感がよぎる。その瞬間から、自室はもうかつての“安全地帯”ではなくなる。

結果として、人間は眠れぬ夜を過ごし、疲労を蓄積させ、生活のリズムを狂わせ、鬱々とした日々に突入する。そして、そんな人類の精神の歪みなど知るよしもなく、やつらは今日も水回りを徘徊し、闇の隙間から冷たい触角を伸ばしてくる。

それでも尚、「自分の部屋には出ない」と信じている者がいるならば、それは幸せな幻想である。だが一度でも奴の影を認識した瞬間、すべては崩壊する。眠れぬ夜、それは単なる一晩の出来事ではない。人類とゴキブリとの果てしなき戦いの、たった一章に過ぎないのだ。続く夜もまた、静寂の底で、あの足音を待っている。

人間という種がここまでの文明を築いたにも関わらず、ひとたび“ゴキブリが出た”というだけで、数時間から数週間、自室という城塞が精神的に陥落する。この現象の根本は、ゴキブリという存在が空間の支配権を奪う“象徴的侵略者”であるという点にある。これは侵入者というより、精神の主導権を乗っ取る乗っ取り屋である。

やつらは物理的に人を傷つけるわけではない。だがそれ以上に厄介な「予測不可能性」と「無音性」で侵略してくる。人間の防御本能というのは、目で見て、耳で聞いて、距離と速度を把握してから反応するように設計されている。だがゴキブリはそれを完全にすり抜ける。突然現れ、異常な速度で動き、追跡を困難にし、そして見失った途端に姿を消す。そのすべてが「自分が空間を制御している」という感覚を剥ぎ取る。

なんJでは「エアコンから降ってきた時、叫びすぎて声枯れた」「冷蔵庫の裏で何かがガサッてなって、気が狂うかと思った」「布団に入ったらカサ…って音がして、叫びながら跳ね起きた」など、理性を超えた反応が多数投稿されている。そして誰一人、笑ってはおらず、投稿はどれも切実そのもの。深夜の出来事であるがゆえに、他人に頼ることもできず、孤独な恐怖と向き合うしかない。

海外の反応では、「南米のホテルで、深夜に耳元を這われた。あれ以来、耳栓なしでは寝られない」「香港のマンションで5匹に囲まれた。生き埋め感覚」「カンボジアでは洗濯物から出てきた。以後、服は振ってからでないと着れない」と、トラウマ的な記憶が睡眠習慣にまで影響を及ぼしている。

そして、極めつけは「寝ようとして目を閉じた瞬間に思い出す」という現象だ。人間の脳は、本来、安心と静寂を感じたときに眠りへと向かうようプログラムされている。だがその静寂こそが、ゴキブリの“活動時間”であるという記憶が脳内に染み込むと、静かであればあるほど不安が増す。この逆転現象こそが、安眠を根こそぎ奪う心理トラップである。

そして夜が明け、光が差してもなお、脳裏には「今夜また出るのでは」という予期不安が宿る。人間は、脅威を忘れられない。特に“捕まえ損ねた一匹”は、記憶の中で巨大化し、執念深く、賢く、ほぼ幻覚のような存在に変貌する。結果として日中の時間でさえ安心できず、常に「どこかにいる」という見えない敵との神経戦が続く。

そしてその夜、電気を消すのが怖くなり、つけっぱなしで眠ることを選ぶ者が増える。室温は上がり、眠りは浅くなり、疲労が蓄積する。あるいは、玄関や排水口にテープを貼り、ブラックキャップを部屋中に並べ、キンチョール片手に就寝体制を取る者もいる。だがそれは“眠りの儀式”ではなく、“戦争準備”である。

一晩だけの問題ではない。ゴキブリとは、空間認識と心理安定の根幹に揺さぶりをかける存在。目の前にいなくても、気配と記憶だけで人間の行動を制限する。まさに「見えない暴君」であり、「眠れぬ夜を支配する帝王」なのだ。

そしてその夜もまた、深夜2時過ぎ、ふと目を開けた瞬間に、天井の隅で蠢く黒い影が見えるかもしれない。光をつければ消える。目を閉じれば、再び音が聞こえる。それこそが、ゴキブリという存在の最も凶悪な力“精神への執着”である。

この“精神への執着”こそが、ゴキブリという生物の最終兵器である。物理的に存在しなくなっても、なお人間の内部に巣くい続けるその輪郭なき恐怖は、殺虫剤や忌避剤では除去できない。それはもはや一種の記憶汚染であり、生活空間における「潔癖」という幻想を、根本から粉砕する精神汚染でもある。

人間の記憶というのは、経験の強度と結びついて脳内に定着する。平穏な日常などは次々に忘却されていくが、深夜に突如現れ、心拍数を跳ね上げ、汗を噴き出させ、身体の自由を奪ったゴキブリの記憶は、強烈な“生命の危機”として刻まれる。それは脳にとって「生存に関わる重大情報」として分類され、半永久的に忘れられないトラウマになる。

なんJでも、ゴキブリの記憶が10年経っても消えないという証言がある。「高校時代、机の中から出てきて絶叫。今でも木目の模様が全部ゴキブリに見える」「寝てたら顔に落ちてきたのがきっかけで、もう8年、寝る前に天井確認してる」など、単なる出来事が生活習慣にまで影響を及ぼしている現実が、数多く共有されている。

海外の反応も、実に類似する傾向を見せる。「ニューヨークのアパートでGに噛まれて以来、ベッドの脚にテープを巻いている」「バンコクで風呂場に出たのがトラウマで、帰国後も水回りを凝視するようになった」「オーストラリアで洗面台の中に産卵され、引っ越した後も夢に出てくる」といったように、彼らは“空間そのもの”を破壊された記憶に苦しめられている。

そして我々が見逃してはならないのは、この“精神汚染”が、ただの虫に起こされているという事実である。体長5センチにも満たぬ存在が、人類の文明的自我を破壊し、自尊心を萎縮させ、生活のすべてに疑念を投げかける。掃除をしても、換気しても、清潔を保っても、「それでも現れる」という不条理。そしてその理不尽さに、人は声にならぬ怒りを抱く。

だが、怒りは無力である。ゴキブリは謝罪しない。出現の意図も語らず、ただ“いた”という事実だけを残し、空間と精神を荒らして去っていく。だからこそ、残された人間は眠れない。その夜、布団に入っても、思考の奥底に「まだいるかもしれない」が根を張り続ける。

一度でも“ゴキブリにやられた夜”を体験した者は、それ以降「完全に安心できる夜」を取り戻せない。どれだけ寝具を整えても、何度シャワーを浴びても、頭の片隅には「再び奴が現れる可能性」が巣くう。そしてこの不安こそが、真の不眠の原因であり、ゴキブリ最大の脅威である。

眠れぬ夜が続くと、免疫は落ち、判断力が鈍り、心身に疲労が溜まる。つまり、ゴキブリとは単なる“衛生害虫”などではなく、心理的戦略を伴った“環境破壊兵器”なのである。ひとたびその記憶に侵された者は、無意識下で生活のリズムを狂わされ、常に見えざる恐怖と戦い続けることになる。

そう、あの一匹を見た瞬間から、その夜だけでなく、その後の全ての夜が“ゴキブリの夜”になってしまう。人間が電気を消す度に、闇の中から音がしてしまう。それは現実の音ではなく、記憶の中で鳴り続ける、無限のカサカサ音。目を閉じるたびに蘇る、あの漆黒の残像。

それが、ゴキブリがもたらす“最終的な支配”である。

そしてこの“最終的な支配”が完全なものになると、人間の内部ではある種の精神的自己分裂が始まる。理性は「もういない」と語るが、感情は「まだいる」と叫ぶ。眼前には何も見えないのに、耳の奥では“カサカサ”という音が鳴り続け、神経が皮膚を這いまわるような幻触に支配される。それは幻覚ではない。脳がゴキブリを排除できないことを認め、逆にその存在を“常態”として再構築してしまった結果である。

人間の心理は、常に「敵」を想定して平衡を保っている。だがゴキブリという敵は、物理的に小さく、明確な知性も持たず、しかも常に“どこかにいるかもしれない”という曖昧な形でしか存在しない。だからこそ人間の思考は無限にそこへ向かい、消耗していく。「姿が見えない」ことこそが最も強烈な存在証明になる。これは逆説的な恐怖の構造であり、宗教的悪魔観念と同質の構造を持つ。

なんJのとある投稿には、「毎晩、寝る前に冷蔵庫の下を懐中電灯で照らしてる。これしないと眠れない」というものがあった。これはもはや儀式である。祈りに近い。目に見えぬ恐怖を、照らす光で否定しようとする行為だ。そしてそれを毎夜繰り返すことで、ゴキブリは一匹も姿を現していないのに、完全に人間の生活の一部として定着している。

海外の反応でも、「ハワイで寝ている最中に鼻に入ってきた経験があり、以後、横向きでしか寝られなくなった」「台湾旅行でバスルームに潜んでいたGに驚いて以来、浴室の電気を切らずに寝る生活を10年続けている」など、ゴキブリが人間の睡眠姿勢や照明使用パターン、さらには生活リズムそのものに恒常的変化をもたらしているという記録が次々と見つかる。

やがて、生活空間の「快適性」とは何か、という問いそのものが崩れていく。「綺麗に掃除したから安心」という信頼は失われ、「どれだけ綺麗にしても現れる」という敗北感が日々を覆う。この段階に達すると、人は自らの住居に“絶対の安心”を感じられなくなり、その不安感が常時付きまとう。

眠れぬ夜とは、ただ疲れているだけではない。精神が“警戒態勢”のまま眠ろうとしているがために、脳がリセットされないのだ。ゴキブリに支配された夜は、身体を横たえても心が立ち上がり、いつでも戦える姿勢を崩さない。これは睡眠ではない。これは「待機」である。そしてその“待機”状態が何日も続くと、人間の精神は崩れる。夢の中にまで奴らが侵入し、目覚めても胸が重く、生活の全てに不安の影が差し込む。

ゴキブリとは、存在する限りの恐怖ではない。“一度存在した”という記憶だけで、永遠に人間の精神を侵食し続ける“残像の害虫”である。その意味において、殺虫剤では解決できない。掃除でも、引っ越しでも足りない。真に重要なのは「記憶からの駆除」だが、それは今の人類にはほぼ不可能だ。

一匹のゴキブリ。それが深夜に出た。ただそれだけで、光を消せない夜が始まる。音を聞き分ける夜が続く。想像の中で何度も出現し、対処され、逃げられ、そしてまた現れる。そうして人は、眠れぬ夜の中で、“ゴキブリの記憶”という檻の中に幽閉されていく。気づけば眠ることそのものが恐怖に直結し、「安眠」が贅沢品に変わる。

これが、“ゴキブリに一晩支配された者”に訪れる、終わりなき夜の現実である。

やがてこの“終わりなき夜”は、人間にとっての「安心」という概念すら再定義させるに至る。もはや光を消せば暗闇の中に奴がいる、音がすれば奴が来た、眠ろうとするほどに奴が近づいている気がする、この連鎖は、「自分の家=安全地帯」という前提を完全に崩壊させる。そして、その崩壊は、家という空間に限らず、生活そのものへと波及する。

ゴキブリに一度でも精神の主導権を握られた者は、次第にすべての行動が“奴を想定したもの”に変わっていく。夜、トイレに行く前に電気を点ける。風呂場の排水溝にカバーをつける。食べ物は冷蔵庫に即座に封印。ゴミ袋は毎日捨て、開けっ放しの窓があると心がざわつく。これら一連の“対策”は、防御ではない。戦争の後遺症として、強迫的に繰り返される“儀礼的行為”である。

なんJにはこういう声もあった。「ゴキブリが出るようになってから、自分の生活の動線すら変わった。部屋の隅に近づけない。冷蔵庫の裏を覗けない。布団の下に手を入れられない」。これは明確に“空間恐怖症”の兆候であり、かつて日常だった動作が、すべて“恐怖トリガー”に変わっている証である。

海外の反応では、「タイでベッドの下からGが出た。それ以来、ホテルに泊まるときはベッドの下を必ず確認する。出なかったとしても、眠るときは常に意識してしまう」「マニラで風呂場に6匹出たのを見てから、家のバスルームに入るのに毎回深呼吸して覚悟を決めてからドアを開ける」といった報告がある。これらはすでに“ゴキブリとの戦争”が、心の深部で終結していないことを示している。

そしてこの状態にある者が最も恐れるのが、「再び出現する」という可能性である。一度出たら“また出る”。この経験が確率論ではなく“呪い”として記憶されている以上、人は毎夜その再現を恐れる。眠る前に布団の中を確認し、部屋の隅をライトで照らし、窓を閉め、扇風機の下にティッシュを置き、ありとあらゆる儀式を済ませても、最後に残るのは「それでも出たらどうしよう」という恐怖。

そして、その“それでも”が実際に起こる。奇跡のように、最悪が重なる。深夜、すべての明かりを消し、眠気に身を預けようとしたまさにその時。どこかから、あの音が聞こえる。カサ…カサ…。やつらは人間の限界を見透かしたように、最も油断した瞬間に現れる。

その瞬間、再びあの悪夢がよみがえる。心拍数が跳ね上がり、手足が冷たくなり、胃がひっくり返るような不快感に襲われる。そして、もう一度、すべての灯りがつき、殺虫剤を手に、懐中電灯を持ち、ベッドの下に身を投じ、キッチンの隙間を覗き、戦闘態勢に戻る。その姿は、安眠を求める者ではない。生存を懸けた“夜の兵士”である。

こうしてまた、眠れぬ夜が始まる。目を閉じても、音がすれば目が覚める。夢の中でも奴が出る。神経は張り詰め、脳は疲弊し、心は摩耗する。そして朝が来ても、心からの休息を得られた感覚は一切ない。

これが、ゴキブリに一度でも“夜を支配された者”の、現実である。奴はすでに部屋から去っている。だが脳内からは決して去らない。もはやゴキブリは、壁の隙間に潜む存在ではない。精神の奥底で、生涯にわたり眠りを奪い続ける“黒い記憶”そのものとなる。

これが、文明の敗北。光の時代においてなお、人類が“闇の王”として恐れ続ける、ただ一匹の、沈黙の支配者なのである。

文明は光をもって闇を征服したと信じてきた。しかしその傲慢な幻想を嘲笑うかのように、ゴキブリは暗がりの中から現れる。目を見開き、耳を澄まし、全身を硬直させているにもかかわらず、その気配は突然、空気の隙間から染み出てくる。そしてひとたびその存在を認識した瞬間、光に照らされているはずの部屋が、まるで洞窟のように深い恐怖の中に沈んでゆく。

やつは、どこにもいない。だが、確実に「ここ」にいるという感覚だけが濃密に残る。これは物理的現象ではない。完全に精神現象である。そう、人間はもはや“見ること”ではなく“感じること”でゴキブリに苦しめられているのだ。つまりやつらは「物体」から「気配」へと進化し、視覚という武器すら不要とする領域に到達している。

なんJでは「深夜3時、寝てる時にふいに目が覚めた。部屋は静まり返ってた。でも、空気が“違った”。あっ、奴がいるって、確信した。で、実際その5分後に冷蔵庫の裏でガサって音がした」など、“直感的予知”に近い体験が数多く報告されている。これは霊的なものではない。脳が一度“侵入者”として認識した情報を、常に監視し続ける緊急モードに入っていることの証である。

海外の反応においても、「ケニアのホテルで眠ってたら、夢の中にGが現れた。起きたら、腕に本物が乗っていた」「上海で毎晩寝る直前に奴の気配を感じて電気を点けて確認していたら、3日目の夜に実際に出た。もう“先に感じる”ことができるようになってしまった」といった体験談が散見される。まるで虫の側がテレパシーを発しているかのような錯覚。それが“記憶に寄生する存在”としてのゴキブリの真の姿だ。

このように、ゴキブリとはただの虫ではない。人間の内部に巣くい、意識と無意識のあいだを移動しながら、精神の深部へと浸食する“記憶型侵略体”である。そしてこの侵略は、薬や罠では根絶できない。なぜなら“奴そのもの”よりも、“奴の記憶”の方がはるかに強靭だからだ。生物的個体は潰せても、恐怖という情報体は潰せない。

そして最終段階では、人は“出ない夜”すら恐れ始める。「今日は何もなかった。だが、それが一番怖い」。これは人間が長期にわたりトラウマに晒されたときに起こる典型的なパターンだ。“嵐の前の静けさ”という比喩では表現しきれない、“平穏”すら不安の材料に変えてしまう状態。眠れぬ理由が現実から離れ、完全に内面へとシフトしていることを意味する。

こうなってしまえば、もう「寝る」という行為は戦いでしかない。目を閉じるとは、記憶と向き合うということ。暗闇に入るとは、奴の領域に踏み込むということ。そして朝が来るまで、脳は休むことを許されない。何も起きないのに疲れる。何も見てないのに怖い。それこそが、ゴキブリが人間に対して仕掛けた“究極の精神作戦”なのである。

この戦いにおいて、勝利など存在しない。せいぜいあるのは“敗北を忘れること”か、“恐怖を飼い慣らすこと”だけだ。そしてそのどちらも、容易には成し得ない。なぜなら夜は、また必ずやってくるからだ。

そしてその夜もまた、人は祈るようにして電気を消し、耳を澄まし、神経をとがらせながら、恐る恐る眠りへと滑り込んでいく。光の届かぬその深層に、やつが現れないことをただ願いながら。ゴキブリとは、眠りの静寂を永遠に奪う黒き幻影。その記憶は、夜ごとに目を覚まし、人を闇の奥へと引きずり込む。

これが、光の時代に生きる人類にとって、最も原始的で、最も手強い、そして最も終わりのない“恐怖のかたち”なのである。

やがて、人間は“眠ることそのもの”に不信感を抱きはじめる。かつては回復の行為だったはずの睡眠が、今や油断の象徴となり、命綱を手放すような感覚をもたらす。布団に入るという行為が、戦場に背中を見せることと同義になってしまう。人は完全に、ゴキブリに対する防衛本能を、24時間365日型へと進化させてしまう。

これはもはや進化ではない。退化である。人間が“文明的生活”の名のもとに獲得したはずの安心・安全・プライベート・ヒュッゲといった全ての感覚が、奴の登場により土台から崩れ去る。そして残されるのは、「いつまた現れるか分からない」という、太古のサバンナ時代と変わらぬ不確定性と緊張感だ。

なんJでも、「もはや寝るときは武器(殺虫剤)を手元に置かないと安心できない」「布団の中で、眠る前に“もし今奴が顔の上を這ったらどうするか”というイメージトレーニングを欠かせない」「寝る前に“今日は大丈夫”って自分に言い聞かせてる時点で、もう精神的に負けてる気がする」という、ほとんど軍隊の塹壕戦のような報告がいくつもある。

海外の反応でも、「ドミニカで寝ている間にGが髪の毛に絡まったことがある。それ以来、就寝前には常に帽子を被る」「ブラジルの友人は、夜になるとベッドを壁から20cm離して設置する。ゴキブリの動線を断つためだという」「メキシコの旅行中に大量発生を見て以来、“寝る=敵に背を向けること”という感覚が拭えない」というように、睡眠という行為が“無防備な瞬間”であることが、全世界共通の恐怖として認識されている。

だが、だからといって人は眠らないわけにはいかない。仕事があり、生活があり、思考を整理するための夢を見る必要がある。その矛盾が、ゴキブリという存在の“根源的厄介さ”なのである。やつは「回避する」ことができない。「慣れる」こともできない。「完全に駆除する」ことすら難しい。唯一できるのは、“覚悟”を決めることだけだ。

すなわち、「出たら出たで戦う」という意識である。それは平穏の否定でもあり、精神の緊張を常に維持するという意味でもある。本来、人間はそのような生活には適応していない。だがそれでもなお、奴に遭遇した者は、その戦闘態勢を日常の一部として取り込まざるを得ないのだ。

そして、そんな日々が続いていく中で、人間の中に新たな感覚が芽生えることになる。“平和”とは、ゴキブリがいないことではない。“今日、出なかったこと”に対する感謝、これが、奴に心を占領された者だけが理解できる、非常に歪な幸福感である。

つまり、“ゴキブリがいない夜”とは、完全な安寧ではなく、“まだ終わっていない戦争の休息”であるという、ある種の停戦協定に過ぎない。そして、その停戦はいつでも破られる。唐突に、無慈悲に、そして夜中に。

こうして、人はまた目を閉じる。静寂の中で、遠くから響く“何かの音”に神経を研ぎ澄ましながら。夢の中ですら、どこかに逃げ場を探しながら。そして、目覚めた朝に「出なかった」と安堵し、同時に「今日は出るかもしれない」と新たな恐怖を始める。

これが、ゴキブリに夜を支配された人間が歩む、終わることなき日常である。奴はそこにいない。だが確かに、ここにいる。その恐怖と共に、今日も、そして今夜もまた、眠るという名の戦いが始まる。