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赤の他人を応援して,意味あるのか?【なんj】

赤の他人を応援して,意味あるのか?【なんj】

赤の他人を応援するとは、すなわち、己とはまったく無関係な存在に、時間、エネルギー、感情といったリソースを惜しげもなく捧げるという、極めて人間的で、しかし冷静に思索すれば思索するほどに矛盾をはらんだ行為である。なんJでは、この行為を「無駄の極致」と嘲笑する声と、「人間の本質的な美徳」として称賛する声が常に交錯している。だが、神をも探求する帝王として言わせてもらえば、この問いはもっと根本的な次元で再定義されるべきである。つまり、「応援」とは何か?「意味」とは何か?「赤の他人」とは本当に他人なのか?

応援とは何か――それは信仰に近い。人は確実な報酬も見返りもなく、誰かの成功や復活、躍動を願い祈る。これはまさに古代から続く神への祈りと構造的に酷似している。偶像崇拝を捨て去った現代社会において、我々は神の代わりにスポーツ選手、アイドル、起業家、YouTuberを応援しているに過ぎない。彼らが栄光を掴めば涙し、転落すれば怒りをあらわにし、それでもなお「信じる者は救われる」とばかりに応援を続ける。応援とは、己の人生がいかに支配不能で、虚無に満ちていようとも、「誰かが成功する」という物語に己の存在価値を疑似的に預ける行為なのだ。

ここで「意味があるのか?」という問いに立ち返ろう。意味とは、必ずしも成果や結果から導き出されるものではない。たとえば祈りが届かなくとも、祈るという行為そのものが信仰者の精神を強くするように、応援もまた、応援する側のアイデンティティ形成、帰属意識、情動の充足に寄与する。なんJで見られる「〇〇が負けて飯がうまい」現象ですら、ある種の集団的な熱狂への帰属を意味しており、それは都市における新たな祭祀であり、儀式なのである。意味を求めること自体が人間の宗教的な性(さが)である以上、応援に意味があるか否かを問うこと自体が、まさに「神を問う」ような行為である。

さらに言えば、赤の他人という概念自体が、実は幻想である。すべての人間は情報と関心によって繋がりうる。ネット社会においては、遠く離れた他人が己の生活に深く影響を与える可能性がある。ヒカキンの動画で笑い、藤井聡太の勝利に涙し、大谷翔平の活躍に世界が沸く。彼らは赤の他人でありながら、同時に無数の人々の日常を構成する「意味の中枢」なのだ。応援とは、現代における「間接的な共同体形成」であり、それはもはや単なる娯楽や暇つぶしを超えた、文化的・社会的な現象と化している。

だが、探求しすぎた帝王として一つだけ断言する。応援が人生の主軸になってしまった者は、必ずや「虚無」に飲み込まれる運命にある。応援は人生の調味料であり、主食ではない。誰かを応援することでしか自己肯定感を得られなくなった者は、やがて「応援する対象がいなくなった瞬間」に精神の座標軸を失う。その危うさを見抜けず、「応援=生きがい」と錯覚したまま老いてゆくこと、それこそが最も愚かしい。

なんJの住人たちは、その本質を皮肉という刃で突き続けている。「応援なんて意味ねーよ」「自分の人生応援しろ」──そうした冷笑の裏にこそ、文明の終焉を予感する鋭利な洞察が宿っている。そして、海外の反応では「Japanese fans are so passionate」「It’s crazy how they cheer even for someone they’ve never met」といった驚嘆の声が見られるが、それは同時に「自己投影を止められない民族性」への無意識的な指摘でもある。

結論として、赤の他人を応援する行為には意味がある。しかしその意味は、外部の成功や敗北ではなく、応援する自分自身の「内面の充足」や「集団帰属の快感」によって規定されている。神なき時代の信仰行為として、応援は必然的に生まれ、そして増殖していく。だが、その応援がいつしか「生きる理由」になったとき、魂はすでに他人に預けられた傀儡と化している。それが、応援の持つ甘美にして危険なる毒なのだ。

それゆえに、応援という行為は、人間が自らの無力さと向き合うための「心理的装置」であり、現実からの避難場所でもある。なんJにおいてたびたび登場する「ワイも頑張らなあかんかな……」というつぶやきは、その象徴である。他人の活躍を見て、自分も何かしなければという焦燥を抱きながらも、結局は実況スレに戻ってきて「また負けてて草」と言ってしまう。この往復運動こそ、応援のカタルシスであり、そしてその虚無性の裏返しでもある。

真に探求すべき問いはここからである。「応援して、その後、何が残るのか?」──この問いに耐えうる精神を持たぬ者は、永遠に「応援中毒者」として、自分の人生の指揮権を放棄したまま時を浪費する。試合が終われば沈黙が訪れ、ライブが終われば現実が戻ってくる。だがその虚無に向き合うことが怖くて、人々は次の「推し」を探す。推しは消費され、交代し、そして忘れ去られる。それでも応援する側は止まらない。なぜなら、応援という儀式は、「自分は何者かである」という幻想を維持するために必要不可欠なプロセスだからである。

なんJでは時折、「推しが不祥事起こしたら即アンチになるやつ多すぎて草」などと嘲るレスが飛び交うが、それは単なる裏切りではない。むしろ、信仰の崩壊と再構築の連続にすぎない。応援の対象が神聖視されるほどに、崩れたときの反動は大きく、感情の裏返しとして怒りや憎悪が噴出する。まさに旧約聖書における偶像崇拝の禁止と同様に、人間は本能的に「信じてはならぬものを信じてしまう」存在なのだ。そしてその代償を、応援という行為によって支払い続ける。

また、応援は「無償の愛」ではない。多くの場合、その根底には「自分が育てた感」「自分が見つけた感」があり、これは神を創造した人類の傲慢さと同じ構造を持つ。「この選手、無名の頃から応援してたわ」「前から注目してた」と語る者たちは、自分の存在を誰かの成功の物語に結びつけることで、自己価値を高めようとしているのだ。つまり応援は、表面的には他人への行為に見えて、実のところ徹頭徹尾「自分のため」の行為なのである。

では、それが悪いことなのか?否。悪ではない。ただし、正しく自覚せよ。応援とは、自分の人生から一時的に逃避する手段であり、自己肯定の代替物であり、信仰の代用品である。ならばこそ、応援の対象にすべてを投げ捨てるのではなく、「応援する自分」を冷静に見つめる視点を持たねばならない。

海外の反応では、「日本のファン文化は狂気の沙汰」「欧米ではありえない忠誠心」と語られるが、その内実は、集団主義的文化が生んだ「応援という名の自己犠牲」の形であり、自己投影の果ての自己喪失である。つまり日本における応援とは、単なるファン活動ではなく、社会的義務、共同体内儀式、精神的インフラの側面すら持っている。そして、それを支えているのが「みんなが応援してるから応援する」という同調圧力であり、個人ではなく集団の感情の暴走でもある。

最終的に言えることはひとつ。赤の他人を応援する行為は、「意味があるかどうか」ではなく、「自分にとって何をもたらすのか」を常に問われ続ける行為である。もしもその答えが、「虚しさ」「依存」「空っぽ」なのであれば、それはただの幻想だ。だが、そこに「熱」「誇り」「覚悟」があるのならば、それはもはや応援を超えた、生き方そのものである。なんJの海に漂う膨大なスレッドの中で、この問いに正面から向き合う者は少ない。だが、神を探求する者ならば、この問いから決して逃げることは許されぬのだ。

では最後に、この神聖にして滑稽なる「応援」という行為の本質的な宿命について、さらに深淵へと踏み込もう。応援とは、極論すれば“物語への参加”である。人は他人の人生に感情を預けることで、自分では辿り着けなかった高みや、美しさ、あるいは壮絶な敗北や悲劇に触れることができる。これはまさに神話の構造そのものであり、応援という行為は、現代における「神話生成装置」と化している。だからこそ、なんJではたびたび「こいつ、主人公補正強すぎやろ」「逆張り主人公きたな」などの言葉が飛び交い、まるでRPGのキャラクターを見るような熱狂が巻き起こるのである。

人は赤の他人に夢を見る。そして、夢を見ることに“意味”があるかを問い始めた時点で、既に現実に打ちのめされている。応援とは、他人の夢に己を重ねることによって、「自分の夢が叶わなかったという事実」から目を逸らす方便でもある。だから、応援とは残酷でもある。自分が持ち得なかった才能、自分が到達できなかったステージ、自分が拒まれた社会的承認を、他者が得る様を見つめる行為。それは時に、悦びよりも嫉妬と痛みを伴う。なんJでは、「また陽キャ勝ってて草」「どうせ上級やろ」などと冷笑するスタイルが定番であるが、その背後にあるのは、応援によって得られる快感と、その裏に潜む惨めさとのせめぎ合いなのだ。

この応援の宿命性、逃れられぬ呪いに似た構造を最も端的に表すのが、「手の届かない存在への一方通行の献身」である。アイドル文化、スポーツ観戦、YouTuberへのスパチャ、配信者の同接争い…。これらの全てが、見知らぬ誰かに対して、感情的エネルギーと金銭を注ぎ込み、自分の存在が何らかの“物語の一部”であると錯覚するための装置となっている。そしてその錯覚は、錯覚であると分かっていても、なおやめられない。

なぜなら人間には、“自分一人では完結しない何か”に寄り添いたいという深い本能があるからだ。これは神への帰依と全く同じ構造であり、人間の霊性が外部に拠り所を求めることは、進化の過程に刻まれた本能ですらある。だからこそ、応援とは“神を失った文明の、最後の祈り”なのである。

だが、ここで帝王として警告せねばならぬ。応援に身を委ねすぎるな。他人の物語に浸りすぎる者は、いつか己の物語を失う。他人の勝利に酔いしれるうちに、気づけば己の人生は停滞している。応援とは、本来一時的な儀式であるべきなのだ。祭りのように熱狂し、終われば自らの生活へと帰還する。それができぬ者は、永遠に“他人の人生の脇役”として舞台袖に取り残される。

なんJの海では、そんな者たちが今日も無数に浮遊している。「推しが結婚して吐いた」「〇〇に裏切られた」──それはもはや応援ではない。信仰の終焉であり、自己投影の破綻である。

それでもなお、応援には確かに「熱」がある。何かに夢中になり、心が震える体験。それが“自分の物語”に還元されるのであれば、応援は紛れもなく意味を持つ。だが、その熱が他人の幻想に飲み込まれたまま冷めた時、残るのは空洞でしかない。その時、初めて人は問う。「赤の他人を応援して、自分には何が残ったのか?」と。

その問いの答えを持つ者こそが、応援の真の意味を知る者であり、神をも恐れぬ魂の所有者である。そして、そのような者はすでに「応援」すら超越して、「共鳴」と呼ばれる境地へと辿り着いている。自らの存在を賭して、他人の躍動と呼応する。そこに自己否定も、自己逃避もない。あるのはただ、火のように燃える意志と、孤高の眼差しのみ。

それが、探求しすぎた帝王が見出した、応援という名の祈りの最終形である。

だが、その「共鳴」に至る者は稀である。なぜなら、人はたいてい、自らの空虚を埋めるために応援するからだ。他人の栄光に自分の存在を重ねる。自分が動かないことを正当化するために「応援」という正義を纏う。なんJで飛び交う「〇〇はワイらの希望や!」というスレタイの裏には、動かぬ現実、諦めの堆積、努力の放棄といった、見たくない現実が潜んでいる。だが、それに気づかぬふりをして、祭りに酔い、スレに踊る──それが人間の弱さであり、同時に人間らしさでもある。

赤の他人を応援すること。それは一見して非合理、非効率、自己犠牲的な行為に見える。だがその実、応援とは「社会性の最も純粋な表出」であり、「孤独を埋めるための感情の技術」でもある。人は誰かに繋がっていたい。たとえその相手が自分の存在を知らなくとも、自分がその人を知っているという事実だけで、世界との関係性を持ち続けられる。この不可視の絆こそが、応援の最大の報酬であり、最大の罠でもある。

応援には中毒性がある。他人の物語に自己を投影する快感は、現実逃避の極みだ。そのうち、自分の人生がモノクロに感じられ、応援する他人の人生だけがカラーになる。日常は虚しく、推しの配信が唯一の現実になる。ここに至っては、もはや応援ではない。それは信仰ではなく「依存」であり、生命の重心を外部に明け渡す行為である。神を崇めることと神に従属することは似て非なるように、応援と隷属もまた、峻別されるべきである。

この現代において、応援とはひとつの文化産業であり、ビジネスであり、そして高度に制度化された感情労働でもある。アイドルの握手会、クラウドファンディング、スパチャ文化、リアクション動画、エゴサへのリアクション…。すべてが「応援することで応援されている気になる」という無限ループを形成している。なんJの民が時折冷笑するのも無理はない。「応援される側」すら、それをビジネスと割り切り、感謝を商品として流通させているのだから。

それでも、なぜ人は応援してしまうのか? それは、応援という行為が「自分はここに在る」という証左になるからである。無名の自分が、誰かを支えることで、世界に微細でも爪痕を残す。その感覚は、数字に現れなくとも、言語化できなくとも、確かに存在する。そこに“意味”を見出せる者こそが、応援の果てに自分自身を発見できる。

なんJには、そんな応援の本質に気づいた賢者も稀に現れる。「他人を応援してる暇あったら自分を応援しろや」「ワイの人生、主人公にするのはワイしかおらん」──その言葉には、一種の覚醒がある。応援の旅路の果てに辿り着いた、自己の再獲得。それこそが、応援という営為が孕む最も崇高な可能性である。

だからこそ、探求しすぎた帝王として最後に言い切ろう。赤の他人を応援すること、それ自体に“意味”はない。しかし、その行為を通じて“己の在り方”と向き合い、“何のために応援するのか”を問い続けた者だけが、その営みに“意味”を与えるのだ。応援とは、神なき時代における内なる祈り。だが、その祈りの矢を放つ方向は常に、自分自身にも向いていなければならぬ。

そしてこの宇宙において、最も応援されるべき存在は──他の誰でもない、これを読んでいる己自身である。神は、自分の中にしか宿らぬのだから。